第43話 アムトとクオ 4
ヒサリは、ほんの一か月の間にもう何年もの年月が経ったかのように感じていた。この一月に起こった事……自分が夫に突き飛ばされてアパートの階段を転げ落ち、意識不明になった事、病院に運び込まれた事、その結果流産した事、身心のショックのために教え子達の待つ学校に行く事も出来ず、そのまま仕事を辞めざるを得なくなった事……。一年前の自分は、自分の身にまさかこんな事が起こるとは想像だにしていなかった。もはやあの頃に戻る事は出来ない。
ヒサリはアロンガに発つ弟クオに、最後のお願いとして、かつて夫と住んでいたアパートに自分の最低限の服と自分名義の銀行手形を引き取りに行ってもらった。警察に届けるべきだとクオに言われたものの、ヒサリは頑なに断った。スンバ村の教え子達には、「暴力を受けたら決して黙っていてはいけない」とあれ程言ってきたのに、自分の行為に矛盾がある事は十分分かっている。しかし……。ヒサリは、夫に対し絶対に行ってはいけない一言を口にしてしまった、という負い目があった。天から与えられた才能を持つマルと比較し、夫を貶めたのだ。そのような事は彼の魂を殺すにも等しい行為だ。自分は夫と夫との間に出来た子どもを殺したも同然だ……。
マルからの手紙の束は、階段から転がり落ちた際胸の内にしっかり抱きしめていたため自分の手元にあった。
ヒサリは退院したその日に、夫と別れて暮らすためのアパートを借りた。それまで住んでいたカサン人の居住地区とは違い、現地のアジェンナ人が暮らす、ごみごみとした貧困地区だ。しかしヒサリは、アパートのギシギシした階段を上り切り、粗末な扉を開いて何も無い自分の部屋に足を踏み入れたとたん、ほうっと大きく息を吐いていた。夫との生活にどれ程息詰まる思いをしていたかという事を今さらながら思った。
(スンバ村の隙間風がびゅうびゅう吹き込む部屋よりは随分上等よ。マル。でもあの風も今となってはなんだか懐かしいわ。あの風に乗ってやってくるあなたの歌声を聞いていた日々をつい昨日のように思い出すわ)
ヒサリは部屋の片づけも終わらないうちに、まるでこの土地の人々のようにぺたんと床に座り込み、鞄の上でマルへの手紙を書き始めた。しかし自分の新しい住所を書こうとしたとたん、ヒサリの手は止まった。思えば自分はマルと手紙でつながり続け、マルと夫をひそかに比較し夫を貶め、夫を深く傷つけ、怒りを招き、結果的に自分のお腹の子の死という結果を招いてしまった。
(もうこれ以上、とても出来ない……マルと手紙のやり取りを続けるなんて。私にはとても、私は罪を背負ってしまった……)
ヒサリは書きかけたマル宛の手紙を破り、別の紙を用意した。それはカサン文化部隊のテセ・オクム宛の手紙だった。テセはヒサリが信頼を寄せる数少ない仕事上の知り合いであり、マルの事もよく知っている人物だ。彼に自分の現状を簡潔に告げ、今はマルとの手紙のやり取りが出来ない事をマルに伝えて欲しい、という内容を書いた。
学校の仕事を辞めてしまったので、新しい仕事を見つけなければならなかった。節約していたとはいえ、そんなに貯金は多くない。
(でも、私に一体どんな仕事が出来るというの? 教師の仕事しかしたことが無い私に……)
ヒサリは空っぽの部屋の窓際に立ち、ぼんやりと外を眺めていた。通りには、ひっきりなしに様々な人が行く。体格も良く、堂々としているのがカサン人、こざっぱりした身なりのシャク人、一番粗末な格好をしているのは現地の色黒のアジュ人や、南部から流れて来たアマン人。妖人達の姿は見えない。彼らは表に見えない所で糞尿の汲み取りをしたり死体の処理をしたり妖獣の皮を加工する仕事をしているのだろう。カサン帝国の理念である「全ての帝国臣民の平等」という理念には程遠い。
(マル、私はこれまで精いっぱい自分なりに力を尽くしてきたつもり。でも本当に分からないのよ。私はどうしたらいいのか……マル……ねえ、知ってるならどうか教えて欲しい……私が愛するアジェンナの人達のために、一体何をしたらいいの……)
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