第42話 アムトとクオ 3

 ヒサリの待つレストランに姿を現したのは、軍服を身に付けたスラリと背の高い男だった。

相当長いこと会っていなかったにもかかわらず、ヒサリはすぐに彼が自分の弟である事に気が付いた。がっちりとした体型の者が多いカサン人の中で、オモ家の者は例外的に瘦せ型で長身の者が多い。ヒサリが立ち上がって合図を送ると、クオはスタスタと風を切るような身のこなしでヒサリの前にやって来て一礼した。

「姉上、久しぶりです」

「まあ、楽にして。座って」

 クオはヒサリの向かいの席に腰を下ろしたものの、生真面目な表情を崩すことなくこう続けた。

「私はこの度アロンガの部隊に配属が決まりました。正直、困惑しております。おじい様がアジェンナ南部についての詳細な研究書を書いた事も今回の処遇に関係している事と思います」

 クオは言った。見かけは落ち着いているものの、彼が非常に不安を感じている事は彼の様子から手に取るように分かった。無理も無い。アジェンナ南部は多くのカサン人にとって「未開の地」と思われている。災害や風土病も多く、人々は簡単に死ぬ。実際に教え子のマルもメメもカッシも、大勢いた兄弟はみないなくなってしまった。さらに反カサン感情も強く、テロ組織が跋扈している。

「姉上は恐れ知らずですね。あんな年齢で、しかも女性の身で、たった一人で南部の片田舎で教師をするとは。まことにあっぱれです。姉上こそ軍人魂の持主です」

「あの頃は私も若くて向こう見ずだったから。それに今よりも平和でしたよ。でも最近ゲリラ活動が活発になってきているとは言っても、あなたを守ってくれるカサンの最新兵器があるでしょう? 過度に恐れる事は無いわよ。まずあなたはおじい様の本をよく読みなさい。そしてアジェンナの人の生活や文化について理解を深めるべきよ。そうすれば何も不安に思う事は無いわ」

「姉上、私もおじい様や父上の本は読みました。でも読めば読む程、何とも言えない気分になります。父上はこの地を調査のために訪れて、恐ろしい風土病で命を落としましたね」

「病気が怖いの? でも兵士はちゃんと予防接種を受けてから行くでしょう」

「ええ、ですが」

 クオの、どこか仮面を付けているかのような顔はこわばっていた。

「気味が悪いのです。妖怪などと共に生きている人間の存在が、です。別に妖怪のたたりなどを恐れているのではありません。ああいうものが迷信だという事は頭で分かっています。私が恐ろしいのはああいう物を信じる人間達です」

「カサン人でも神の存在を信じている人は大勢いるじゃない。目に見えない物を信じるのはどの国の人間も同じよ」

 オモ家はそれ程信心深い家系ではなかった。しかし何か願い事がある度に寺院に出かけて祈りを捧げるのは、彼女にとってごく自然な行為である。

「何も怖がる事は無いわよ」

「怖がってなどいませんよ」

 クオの軍人としてのプライドが急に頭をもたげたのか、彼は神経質そうな顔をかすかにゆがめた。

「クオ……」

 ヒサリはこの時、不意に胸に生じた不安を口にした。

「ランが以前、アジェンナの民をひどく見下すような発言をしていたの。あなたは彼らについてそんな風に思ってはいないでしょうね」

 クオはそれには答えず、

「姉上は理想主義者ですね。軍隊はそのような理想を持ち続ける事が困難な場所です」

 とだけ言った。

「理想ですって? これは当たり前の事よ。最近じゃカサンの軍人がアジェンナの駐留先で現地の女性に乱暴を働くような事件が起こってるそうじゃない。それは本当なの?」

「知るわけがないじゃないですか。私は士官学校を卒業したばかりなんですよ」

「そうね。悪かったわ。でももし仮にあなたがそういう事を目撃したら、放置してはだめ。あなたは一兵卒ではなく士官なんだから。カサン帝国軍は神聖なのよ。人種を問わず、カサン帝国内の人の命と安全を守らないといけないの。分かる?」

 クオは薄い唇を微かに引き結んだ。笑っているようにも見えた。

(私を現実を知らない理想主義者だと、おかしく思ってるのか…)

 しかしヒサリは重ねて、弟に言い含めた。

「彼らを侮ってはだめ。彼らはなかなか怒らないし、いつでも微笑んでいるから、時には愚鈍に見えるかもしれない。けれども彼らはとても賢いの。彼らの心は泥のようです。柔らかいからと踏みにじっていると、いずれ泥に飲み込まれてしまうでしょう。そんな底知れなさが彼らにはあります」

 クオに会うのは久しぶりだったがそんなにゆっくり話す時間は無かった。休みの日に外出すると、アムトの機嫌がひどく悪くなるからだ。たとえ弟に会うためだと言っても。そのためクオとの会話を早々と切り上げ帰宅した。

(今日は郵便が来ない日だから、マルからの手紙が見られる事も無いわ)

 しかし扉を開けたヒサリを待ち受けていたのはアムトのひどく不機嫌な声だった。

「おい、一体これは何だ!」

(な……)

 アムトの足元には、これまでマルから送られてきた手紙が散らばっていた。

「箪笥の中を勝手に見たの!?」

 夫がそんな事までするとは思わなかった! しかしアムトはもはやそんな行為を恥じる気持ちも失ったかのようだった。

「夫に隠れて若い男と手紙のやり取りか? お前がそんなふしだらな女とは思わなかった!」

「ふしだらですって? 何を言ってるの? 彼は私の教え子よ」

「ただの教え子の手紙ならなぜ読んですぐ捨てない?」

「捨てられるわけないじゃない。教え子からの手紙は教師にとって宝よ」

「いろいろ言い訳の多い女だな! 中身も読んだがこれが生徒が教師にあてた手紙か!?」

 アムトはいきなり手紙の一つを手に取って、封筒ごと引き裂いた。

「やめて!」

 ヒサリは床に散らばっている手紙をかき集めた。

「私があの子の手紙を取っておくのはね、あなたも読めば分かるでしょ!? 彼が天才だからよ! あなたとは比べ物にならない程の天才だからよ!」

 ヒサリは手紙を胸に抱いたまま扉を開け、外に出た。そしてそのまま階段を駆け下りようとした。

「このあばずれ!」

 そんな声と共に、ヒサリの背中にドン! という衝撃が走った。とたんに、周りの壁が大きく歪んだ。

(ああっ、体が、体が壊れる!)

 次の瞬間、ヒサリの心も体も、まるで永遠のような暗黒に包まれていた。

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