第41話 アムトとクオ 2

 その時、突然、荒々しく扉の開く音がした。ヒサリは軽く溜息をついた。近頃は、家に戻る度に小言ばかりのアムトと顔を合わせるのも気が重かった。しかし自分がマルからの手紙で密かな喜びを味わっているという後ろめたさもあり、無理やり笑顔を作って夫を出迎えた。

「お帰りなさい」

 しかしアムトは何も言わないままヒサリを肩で押しのけて中に入ると、食卓テーブル前の椅子にドサッと体を沈めた。かと思うとテーブルに置かれた酒の瓶を引き寄せ、グラスにどぼどぼと注ぎ始めた。

「こんな昼間からお酒? ラジオドラマの脚本書かなきゃいけないんでしょ」

「脚本の仕事は無くなった」

「え!」

「俺の事を上層部の奴らに『アナーキスト』だとチクった奴がいる。まあ目星はついてるけどな」

「まあ、実際そういう小説を書いたんだもの。しょうがないわよ」

「そんな気楽に言ってくれるな。俺にとっては死活問題だ。俺は生まれが悪いからな。チクショウ!」

 アムトはガツン! と机を叩いた。

「お父様の事をそんなに悪く言うもんじゃないわ」

 アムトの父親は著名な文筆家だ。進歩的な自由主義者だが穏健な思想の持主で、決して反体制派などではない。しかしそんなアムトの父親までも目を付けられる程当局の締め付けが厳しくなっているという事か。良くない事だ、とヒサリは思った。植民地において頻発する反カサン組織によるテロ活動や本国内の貧困層の労働運動を受けて、カサン帝国内では思想統制が厳しくなっている。しかし植民地における混乱は総督府の職員や軍の腐敗が原因でもある。また一度失ったアジェンナの地を奪還しようとするピッポニアの地下組織の暗躍もあるという。思想統制などでどうにかなるものではない。まずはカサン帝国精神を国の隅々まで貫徹させ、上に立つ者から正しい規律を持ち、民族間の差別を撤廃しなくてはならない。そうでなければ帝国は瓦解するだろう。しかしそんな事を公の場で口にする事すら大変な勇気が必要となってきている。

「これからは軍政の時代だ。親戚に軍関係者がいるか軍に媚びを売る奴ばかりが生き残るんだ」

「こんな時代、いつまでも続かないわよ」

「いつ終わるっていうんだ? 一年後か? 二年後か? 言ってみろ!」

「そんな事、分からないわよ……」

「軍の偉い連中に媚びを売る腐った土人根性の連中ばかり幅をきかせてやがる! あんな連中に顎で使われるこっちの身にもなってみろ!」

「ラジオ局の仕事が出来るだけでもいいじゃない。今時、作家も軍需工場で働く時代よ。それに「腐った土人根性」なんて言い方やめて!」

「どこまで偉そうなんだ、お前って女は! いつまでもきれい事ばかり言いやがって! むしずが走る!」

 むしずが走る、とまで言われてヒサリはさすがに傷つき、夫を残したまま部屋の外に出た。情緒不安定なアムトにといると、神経をすり減らしそうだった。妊娠が分かった時には喜んでくれたものの、ほんの一時だった。ヒサリが子どもを身ごもった今も仕事に出るのは、彼がいつ仕事を辞めるかと思うと不安で少しでもお金をためておきたかったからだ。

 ヒサリは逃げるように自分の部屋に駆け込むと、再びマルの手紙を取り出した。アムトとの仲が冷え切った今、マルの手紙がヒサリにとって最大の癒しであった。

「つわりは生まれる前の赤ちゃんと遊びたがっている妖怪の仕業です。つわりを引き起こす妖怪を追い払う方法はいくつかあります。テルミが詳しいのですが、つわりなんて自分には関係ない事だと思ってよく聞いておかなかったのが残念です。けれども、私が覚えているまじないの文句をいくつか書いておきます……」

(エリート高校で勉強してカサン帝国の最高学府で学んだというのに、あの子の心の中には今でも故郷の森が茂り、川の水が流れている……。こんな事を書いてくるなんて)

 しかしヒサリは、マルの手紙を一笑に付す気にはなれなかった。ヒサリは率直に嬉しかった。

(アムトの事はもう放っておくしかない。こっちから何を言っても怒るに決まってるんだから)

 ヒサリはマルの手紙を大切に箪笥の奥にしまうと、翌日の授業の準備をしつつ、マルに書き送る返事について思いを巡らせた。

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