第40話 アムトとクオ 1

 ヒサリは小学校の教壇で「トアンの春」という題の付けられたカサン語の詩を朗読している。ヒサリの口から出る言葉の一つ一つが、まるで羽を付けているかのように軽やかに教室じゅうを舞う。

 この詩はカサン帝国の首都トアンの大学で学ぶ教え子、ハン・マレンが書いてよこしたものだ。教室じゅうの生徒達は、静かに詩に聞き入っていた。

 常夏のアジェンナの首都タガタイの街の中心地に位置する教室は実に蒸し暑い。しかしそのむせ返るような教室の中に、詩の言葉と共に、帝都の爽やかな春の風が吹き抜けてゆく。常夏の国の子ども達は春を知らない。けれども彼らは少しでも「春」というものを感じただろうか?

 ヒサリが詩を読み終えた後も、しばらくの間教室は静寂に包まれていた。

 やがて、一人の男子生徒がサッと手を挙げた。

「ウー・エオン、質問ですか?」

「先生! それはハン・マレンの詩ですか?」

「そうです」

「ハン・マレンはオモ先生の恋人ですか!?」

「まあ、何を言うんです!」

 ヒサリは思わず声を尖らせた。ウー・エオンは映画好きのいくらかませた生徒で、誰と誰が付き合っている、といったゴシップをやたらと好む。

「ハン・マレンは私の教え子です。あなた方と同じアジェンナの子です。非常に努力してカサン語を習得し、今ではトアン大学で学んでいます。あなた方も頑張ってカサン語を学んでください」

 そう言うヒサリの胸は激しく脈打っていた。

 授業を終え、自転車で自宅のあるアパートに戻った。アパート一階にずらっと並ぶポストの一つを開く。中には手紙が二通入っていた。一通はマルからのもの。もう一通は弟のクオからのものであった。

(クオから……珍しいわね)

ヒサリはそれらを素早く鞄の中に押し込んだ。

近頃は夫のアムトが先に帰宅する事が増えた。彼がマルからの手紙を見つけると面倒な事になる。ヒサリがマルからの手紙をポストに見つけた日は、アパートの五階まで上がる足取りも軽々としていた。

 部屋の中に入ると、ヒサリは着替えをするよりも先にマルからの手紙を開封して読み始めた。手紙はいつもより短かったが、写真が同封されていた。

「まあ……あの子が私に向かって笑ってる」

 よく撮れた写真だった。彼の朗らかな笑い声まで聞こえてきそうだった。髪型や服装が以前と変わり、随分垢抜けて見える。この時(あの子には親しく交際している女性が出来たんじゃないかしら)

ヒサリは直感的に思った。手紙を読んでますますその思いを強めた。

(随分、大人になったものだわ……)

 以前とは違い、ヒサリを気遣う言葉ばかりが並んでいる。女性との付き合い方を覚えたのだろう。手紙が短いのも交際相手が出来たからではないか。

(まあ、赤ちゃんに名前をあげたいから私と赤ちゃんの写真を送ってほしい、ですって?)

 ヒサリはゆっくりと自分のお腹を撫でた。

(幸せな子。あなたは神様から才能を授かった天才に名前をもらえるのよ)

 しかし、同時にヒサリの心は軋んだ。ヒサリはこれまで幾度となく、無邪気で愛らしく賢い、幼い頃のマルのような子を胸に抱く事を思い浮かべ、その度に打ち消した。自分とアムトの子がマルに似るはずがないのだ。こんな事は考えるだけでおぞましい事だった。

 さらにマルは、ヒサリが幼い頃学んでいたカサン古式武術にも触れていた。

(きっとランだわ! 彼に余計な事を話したのは!)

「私はそういう事はからきしダメです。もし先生に武術も教わっていたら、私も少しは男らしくなっていたでしょうか? アジェンナの妖人達の間にも、秘伝の武術が伝わっていて、主に妖怪ハンター達が集まって練習をしていました。ナティは多少心得があったようです。残念ながら詳しくは聞きませんでしたが……」

 ヒサリは読みながら少しばかり顔をほころばせた。

(そんなに言うなら一度マルに見せてあげれば良かったかしら。私の戦い方はまるで舞っているように美しいと言われたものよ)

 生徒達に見せた事はないが、護身と精神の安定のために、鏡の前で鍛錬を続けてきた。鏡の前で昔習った型を繰り返していると、不安や苛立ちをいつしか忘れてしまう。

(この子が生まれたら、もう一度本格的にやってみようかしら)

 マルに誕生日を祝われて、改めて自分の年齢を思った。しかし老け込むにままだまだ早い。

 今回のマルの手紙が短く、いつも楽しみにしている「トアンの妖怪から聞いた話」を書いていない事は物足りなかった。しかしマルは学業にも恋人にも時間を割かなくてはいけないのだ。

 ヒサリはマルからの手紙を自分の手帳に挟むと、次に弟のクオからの手紙を開いた。彼と最後に会ったのは何年前になるだろうか? トアンの陸軍士官学校を卒業したクオは、アジェンナ国南部最大の都市アロンガの部隊に所属する事が決まった事が書かれている。アロンガはかつてのヒサリの赴任地であるスンバ村にも近く、教え子のダビ、トンニ、テルミの進学先でもあり、テルミは現在軍所属の看護師としてアロンガで生活している。クオは先々もしかしたらテルミと顔を合わせる事があるかも知れない。

「アロンガに行く前にタガタイに立ち寄るので、ぜひ姉上にお会いしたい」

 手紙にはそう書かれていた。ヒサリはずっと長いこと会っていない弟の顔を思い出そうと、じっと目を閉じた。

 ヒサリが十二の時妹のランを生んだばかりの母が死に、十五の時父が死んだ。以来、幼いクオとランは叔父夫婦に預けられ、自分は女学校の寄宿舎で生活するようになった。そしてヒサリが十八でアジェンナ国スンバ村の小学校に赴任する事が決まった頃、クオはトアンの陸軍幼年学校に入学した。そのため、ヒサリは本当に限られた期間しかクオに会っていないのだ。頭が良さそうだがどこか神経質な弟の面差しを思い返しつつ、彼は一体どんな風に成長しただろうか、とヒサリは思い巡らした。

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