第39話 恋 20

 ある日、マルはハミと共に映画館に出かけた。

その内容は、カサン人の青年がアジェンナ国を舞台に冒険を繰り広げるというものである。

 帰りの道のりでハミはマルに尋ねた。

「ねえマレン、あの映画に描かれたアジェンナって、すごく変な感じがしなかった?」

「そんな事無いよ。アジェンナについてすごくよく調べてると思ったな。まああの映画の舞台は北部で、私は南部の出なんで、あまりよく分からないけれど。それより出て来るアジェンナ人がみんないい人なのが良かった。作り手の、アジェンナ人と仲良くしたいっていう意図を感じたよ」

「でも、アジェンナ人がみんないい人だけど単純過ぎて、ちょっとバカにしてる気がしない?」

「まあ、実際にはアジェンナ人にもずるい人や悪い人はたくさんいるけどね」

「ねえ、アジェンナの伝統的な服って素敵ね。あなたがああいう髪型にしてああいう服を来ている所、見てみたい」

「いやあ、似合わないと思うけどな……」

 マルはそう言いつつ困惑していた。映画に出ていたアジェンナ人の格好は上流階級の人達のものだ。妖人だった自分はあんな風に髷を結う事も無ければ華やかな刺繍の入った服を着る事も無い。こういう事をハミに話すべきか……? いいや、話す事なんかない。ハミさんはきっと戸惑うに違いない……。

「ねえ、マレンは女優ならだれが好き?」

「うーん、あんまりよく知らないけど、アン・ウンスかな」

「アン・ウンス……やっぱりきれいな人が好きなのね。まあ男の人はきれいな人が好きなのは当たり前よね」

「あんまり女優を知らないもんだから。アン・ウンスは初めて見た映画に出てたんだ」

 マルが下宿に戻る度に待ち受けているのが、シュシキンによる「復習」だった。シュシキンはハミとのやり取りを根掘り葉掘り聞き出しては、あれこれダメ出しをするのだった。

「何!? 好きな女優を聞かれてアン・ウンスって答えたって!? バカだねえ! そんな事、絶対言っちゃダメだ!」

「ええー!!」

「好きな女優を問われたらすかさずこう答えるんだ。『女優? そんな輩には興味は無いね。君みたいな美しい人が目の前にいるんだから』って」

「それから、いいかい? 女性の前では決してしてはいけない話がある。それが何か分かるか?」

「卑猥な話?」

「いいや。そうじゃない。卑猥な話が好きな女性もいる!」

「本当? ああ、そういえばそうだな。スヴァリもそうだし……。でも、だとすると何だろう? 分かんないよ」

「それは君自身がしたい話だ!」

「はあ……」

「自分がしたい話をしているうちに、だんだんと夢中になって、相手が退屈して欠伸をこらえてるのも分からなくなる。ほら、あの文学サークルのお喋り君のギョ・ゴクの奴がそうだろう? いいかい、君がするべきは徹底的に、彼女が聞きたがってる話をする事だ!」

「はあ……」

 マルはただただ感心するばかりだった・シュシキンはどうしてこんなに女心が分かるのだろう!? そして思いめぐらすのはかつて自分がヒサリ先生に書いて渡した大量の手紙の事だった。よくもまあ、あんな物をヒサリ先生は我慢強く読んでくれたものだ! 本当は退屈だっただろうに! 

 マルは紙を前に腕組みした。自分はかつてのような子どもじゃない。紳士にならなくては! これからはヒサリ先生が興味のある事だけを書こう。しかしヒサリ先生の興味のある事って何だろう? マルはヒサリ先生宛の手紙を前にして考え込んだ。思い返してみれば、マルは自分がヒサリ先生がどんな食べ物が好きかもどんな俳優が好きかもまるで知らないのだ。考え出すと、全く筆が進まなくなった。

 まずはヒサリ先生の誕生祝いを書いた。

「ヒサリ先生はこの国で一番愛されている春という季節に生まれたのですね。私は今トアンの春を思う存分堪能しています。春の光の全てがあなたの誕生を祝っているかのようです」

 それからマルは、もうじき生まれてくるであろうヒサリ先生のお腹の赤ちゃんについても書いた。前回の手紙では、ヒサリ先生はつわりが苦しい、と書いていた。故郷の友達で産婆の子のテルミが、かつて、つわりに効く薬草やおまじないについて教えてくれた事がある。マルは覚えている限りの事を書いた。

(赤ちゃんが生まれたら会いたいな。ヒサリ先生にそっくりだといいな。そして出来れば女の子であって欲しい……)

 こんな事を考えている自分が恥ずかしい。けれどもその思いをどうしても抑える事が出来ない。

「赤ちゃんが生まれたら、先生が私に名前を下さったように私も赤ちゃんに名前を差し上げたいのです。別に使っていただかなくとも構いません。名前なんていくらあっても邪魔にはなりませんし、いらないなら箪笥の引き出しにでも放り込んで下さい。今すぐにでも名前を送りたいのですが、やはり赤ちゃんの顔を見てからにしたいです。赤ちゃんが生まれたらぜひ写真を送って下さい!」

 マルはそれから、ペンを手にしたまましばらく考え込んだ。

(妖怪達が今もいろんな話をしてくれる。その事についてならいくらでも書けるけれども、そんなもの先生にとって面白いんだろうか? ヒサリ先生はどんな話なら聞きたいんだろう?)

 ヒサリ先生の私生活も心の内も、いまだに神秘のベールに包まれているのだ。それをはぎ取ってみたい。こう思う自分の心に、マルは微かに慄く。

マルはふと、ヒサリの祖父が書いた日記に描かれたヒサリの少女時代を思いだした。マルはたった一日で読み切り、ヒサリの少女時代にあれこれ思いを馳せた。

「先生は昔カサン古式拳法を習っていたそうですね。そして先生よりも体の大きな男の子を叩きのめしていたとか。とても痛快な話ですね! 私はそういう事はからきしダメです。もし先生に武術も教わっていたら、私も少しは男らしくなっていたでしょうか……?」

 コツコツ、と扉を叩く音がした。マルが立ち上がり扉を開くと、そこにハミが立っていた。いつもとはいくらか違った様子で。髪の毛は乱れ。服の胸元が大きく開いていた。

「マレン……こんな時間に御免なさい。急にどうしても、あなたに会いたくなって来たの」

 ハミはそう言ったまま、熱のこもった目でマルの方をじっと見ていた。

「…………」

 マルは返事も出来ないまま、向かい合っていた。ハミが息を吐く。それをマルが吸い込む。

「会いたかった……」

 ハミの瞳はまるで磁石のようだった。二人の顔は自然に引き寄せられていた。次の瞬間、マルはハミの唇の感触を受けた。それは土のように柔らかい。しかし故郷の土ではなく、カサンの少し湿ってひんやりした土。

(ハミさん……)

 マルは相手の体にゆっくりと自分の腕を回した。

 幼い頃、川辺の木に抱き着いてじっとしている時間が大好きだった。ハミの体から、まるで大木のような安らぎを感じた。

(おらはこの人と結婚するんだろうか? この人の中に、いつの日かおらの子が……)

 そんな事を思いつつ、マルはハミと合体して一本の木になったかのように立ち尽くしていた。

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