第37話 恋 18

 この時、部屋の扉を叩く音と

「手紙、ここに入れとくからね!」

 という声が聞こえた。下宿の主人のキヤおばさんだ。

(ヒサリ先生からかもしれない!)

 マルはそう思った瞬間、床から飛び起き、扉を開けた。扉には、キヤおばさんが下宿している学生にそれぞれに届いた手紙を入れてくれる小さな箱が取付られている。

 箱に入っていたのはタク・チセンからの手紙であった。筆で書かれた立派な文字に、マルは惚れ惚れと見入った。タガタイ第一高等学校にいた頃は彼の事をライバルだと思っていたけれども、今考えればちゃんちゃらおかしい。この達筆を見るにつけても、自分とは雲泥の差である事は一目瞭然だ。マルは封筒から紙を取り出し、文章を目で追い始めた。数秒後、マルは驚愕の余り

「エーーー!」

 と大声を上げていた。手紙にはこう書かれていた。

「実に恥ずかしい話だが、俺は今アルバイトに明け暮れている。勉強する時間を確保するのにも苦労し、本もなかなか読めず嘆かわしい限りだ。君は前回の手紙で結婚について書いていたね。俺には高等学校に入学する前から交際し、将来を約束していた女性がいる。大学を卒業し仕事を得てから彼女と結婚するという段取りを考えていたが、先日久しぶりに会った際、少々はめを外し過ぎてしまった。結果は言うまでもなかろう。今年の秋にも俺は父親になる。彼女は家庭的な女性だ。自分で金を稼ぐタイプではない。それに加え、彼女も俺も裕福な家庭の出ではない。そのため俺が大黒柱となってしっかりと稼がなければならない……」

 タク・チセンの真面目な言葉で綴られた文章に、マルは茫然となった。

(タク・チセンが、お、お父さん……!? う、嘘でしょーー!!)

 さらに手紙にはこう綴られていた。

「俺は君のことが心配だ。君はどうも女性に対し奥手なように見える。もっとも君が女性にまるで興味を持たない男ならそれでも良かろう。しかし君は、女性に対し大いに関心がありながらいざ結婚となると尻込みをするタイプの男に思えるからだ」

「バ、バカにするな……!」

 マルは思わず言葉を発していた。

「おらだって、おらだってハミさんと……」

 「結婚」という事を思ったとたん、マルの顔はカーッと火照った。と同時に途方に暮れた。「一家の大黒柱になる」とはどういう事か、マルにはさっぱり分からないのだ。

「ハアアア……完敗だあ……」

 教練はもちろん勉強でも、彼にはまるで歯が立たなかったが、こういう方面でも……。

 手紙にはさらにこう綴られていた。

「君は、カサン帝国の支配に対し、アジェンナの貧しい民から不満の声がある、と案じていたね。俺はカサン帝国の支配が最終的には善をもたらすと信じている。しかしそれと同時に急激な変化が社会に大きなひずみをもたらしているであろう事も理解出来る。大局的に見れば善に向かってはいても、そこからこぼれ落ちる物や苦しむ者は当然出て来るだろう。それを仕方のない事だと放置する事は許されない。彼らの声を聞き取り、救済の方法を考えるべきだ。そのために何をすべきか? 君の手紙を受け取って以来、俺はずっと考えている……」

 最後の一枚にはこう書かれてた。

「君の周りには君の詩をこきおろす連中ばかりのようだが、そんなバカ共の話など聞く必要はない。凡人はえてして天才の足を引っ張りたがるものだ。俺は自分が天才ではない事は知っているが天才を嫉み邪魔しようとする人間ではない。だから安心してくれ。君は俺のアドバイスだけを聞いていればいい」

(すごい自信だなあ。でも天才だとか凡人だとか、そういう事、おらにはちっとも分からないよ……)

 マルには、何でも出来る彼がなぜマルを「天才」だと言うのかよく分からなかった。

「……だが俺は、君が天才だからといって今のままで十分だ、と思っているわけではない。君の書く物はどれも喜びと光に満ちている。まるで世界に怒りや恨みといったものが無いかのようだ。それは恐らく、君の心があまりに肥沃で光に溢れているからだろう。しかしそれだけでは足りないのではないか。君はもっと世の中に満ちる怒り、恐れ、恨み、絶望、といった負の感情に目を向けるべきではないか。神に多くのものを与えられた者には使命があると俺は思う……」

 「使命がある」。この言葉はマルにとってどこか腑に落ちるものだった。「使命」。そう。母ちゃんも昔言っていた。自分達には使命があるのだと。それは村で起こった出来事を歌物語にして後世に伝える事だと。それは良い事だけではなく悲しい事やつらい事も。

 マルは、母ちゃんがよくダムの工事に行かされて死んだ一番上の兄ちゃんの歌を歌っていたのを思い出した。その事は母ちゃんにとって身を切られる程つらい事のはずだった。それなのにそれをし続けたのは、同情した人達からお金をたくさん恵んでもらえるからだと思っていたけれども、今思えば村に起こった悲劇を後世に伝えるという「使命」を果たすためではなかったか。

「そうか。おらには果たさなきゃいけない使命がある。でも、それが何か、おらにはよく分からないよ……」

 手紙の最後はこう結ばれていた。

「アルバイトに明け暮れ、勉強も満足に出来ないが俺は今幸せだ。俺は自分のした事に後悔はしていない。これからもずっとそうだろう。俺は自分の人生を自分で選ぶ。その結果がどのような物であろうとも悔いは無い」

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