第36話 恋 17

 マルはそれからどうやって自分の部屋にたどり着いたのか、まるで覚えていなかった。レストランから一人飛び出したもののなかなか下宿にたどり着けず、長い事夜の街をうろうろし、ついに路上に座り込んで歌を歌っていたのはなんとなく覚えている。しかしその後の事は全く覚えておらず、気が付けば下宿の自分の部屋で朝を迎えていた。

(どうやってここに戻って来たんだろう……)

 酒の妖怪はよく人の記憶を奪うと聞いていたが、それが本当なのだと思うとマルは恐ろしくなった。

 何者かの気配を感じてハッとして首を回す。

「ハミさん……なんで……」

「目が覚めた?」

 真上から自分を見下ろしているハミに何と答えていいのか分からず、ただぼーっと、相手の満月のような丸顔を見つめていた。

「あの人があなたに意地悪するんじゃないかと思って心配だったの」

「ありがとう。でもどうってことないですよ。彼女は昔からああいう性格で慣れてますから」

 そう答えつつ、マルは考えていた。まさかハミさんがおらを抱えてここまで……? いやいやまさか! 

やがてマルは、床に足の踏み場も無い程散らかしていたものがすっかり無くなっているのに気が付いた。

「あら、ごめんなさい。ノートや本は全部まとめてあそこに重ねておいた。書き物した紙も。私、体が大きいでしょ。踏んじゃいけないと思って」

 マルは頬が燃え上がるように赤くなるのが分かった。整理整頓の苦手なマルは、床に何でも放り出す癖がある。高等学校の寮ではいつもルームメイトのシンが直してくれたものだが、ここでも、と思うと恥ずかしい。

「たくさん書き物をしてるのね。詩だけじゃなく物語も書いてるのね。後でじっくり読ませて欲しいわ」

 マルは何とかハミを褒める言葉を探して思案した挙句、こう口にした。

「とても整理整頓がお上手で、あなたはいいお嫁さんになれる方ですね!」

「いいえちっとも。掃除は好きだけど料理は苦手なの」

「そんな事、大した事じゃありませんよ! カサンには米もパンも麺もあります。それを変わりばんこに食べて、あとは果物でも食べていれば十分ですよ」

 マルはこう言った後、まるでこれからハミと夫婦になるかのような口ぶりだと気付き、慌てた。案の定、ハミはクスクス笑い出した。

「お腹空いたでしょ。朝ごはん食べない?」

「朝食は一階の食堂で取る事になってるんです。ハミさんは?」

「朝食の時間はとっくに終わったみたいよ。ここのおばさんが部屋まで持って来てくれた」

 ハミが机の上を指さした。そこにはいつのまにか皿が乗っている

「ええ!? 今何時ですか!? 大学に行かないと!」

「あら、大丈夫よ。今日は学校が休みですもの。ねえ、ここで一緒に朝ごはん食べない? 私、パンを持ってるわ」

「ええ、そうしましょう」

 いつしか二人はすっかり打ち解けた雰囲気になっていた。マルは肉と野菜を炒めた料理を頬張りながら、パンだけをちぎって食べているハミを気遣った。

「これ、少し食べませんか? ここのおばさんの作った料理、とっても美味しいですよ。冷めちゃいましたけど」

「あら、食事は全部あなたが食べないと! だってあなた、こんなに小さいんですもの。食べないと大きくなれないわよ!」

 ハミは冗談めかして言った。

「もうこれ以上大きくなるのは無理ですね。カサン人のような立派な体つきになれたらと、何度思った事か!」

「あら、あなたは今のままでいいと思うわ。ただ変えられる所があるとするなら……そうね、もうちょっと、髪を伸ばした方がいいわね」

「え!?」

 思いがけない事を言われてマルは驚き、とっさに自分の頭に手を触れた。髪はタガタイ第一高等学校にいた頃からずっと短く刈っている。伸ばしたら、カサン人のようなまっすぐな髪ではないから、整えるのが大変だ。

「でも、私、癖っ毛なんです」

「そうなの? きっと素敵だと思うわ」

 ハミが自分をじっと見ている。マルは、体がだんだん火照ってくるのを感じた。

「あ、あの……ハミさんはふくよかで素敵だと思います」

 おずおずと口にすると、ハミは

「まあ、ひどい!」

 と言って口を尖らせた。

「そうでした。ここでは女性にそういう事を言うのは失礼に当たるんですね。でも、私にはとても……」

「とても?」

 その先の言葉は、マルの唇の内側で留まっていた。互いの視線が互いを引き付ける引力であるかのように、二人の顔は接近していた。マルの顔が彼女の唇の間近まで来た瞬間、彼女の顔がスッと遠のいた。

「また明日! 学校で!」

 部屋の外では春の嵐が激しく舞い、窓ガラスに砂や葉っぱが激しく打ち付ける。故郷のスンバ村では、これ程激しい風というのは必ず雨を伴うものだった。しかしここでは晴れていても風の強い日がある。マルの頭の中にも、今、激しい風が吹き荒れていた。

(ああ、ヒサリ先生、私は恋をしました。ハミさんは暖かくて賢くて、一緒にいて本当にホッと出来る人です……ああ、それにしても、ヒサリ先生は今どんな結婚生活を送っているんだろう! 子どもはそろそろ出来る頃かな……)

 思いはあちこちに飛んだ。机についても気が散って、まるで勉強に集中出来ない。マルはついに床に身を投げ出し、ゴロゴロと転がりながらノートに思いつく言葉を書き綴った。

「あーあ! どんなにカサンの教育を受けても、こんな風に床に転がる昔ながらの習慣が体から抜けない!」

 しかしマルはこうも思わずにはいられなかった。

(ヒサリ先生も床でごろごろしたいと思う時、無いんだろうか?)

 ヒサリ先生が常に身にまとっている、まるで鞘から抜き放った刃物のような緊張を解き放ち、くつろぎたいと思う瞬間は無いのだろうか……?

 マルはかつてかいま見た、ヒサリ先生のきつくまとめた髪をほどいて長い髪を垂らしている姿や、恋人と抱擁し合っている様を脳裏に思い描いた。それはマルの胸に微かな興奮と苦みとをもたらした。

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