第35話 恋 16

 やがて、給仕がテーブルにボトルを二本持って来た。ランは慣れた手つきでマルの目の前のグラスに酒を注ぎ、自分のグラスにも注いだかと思うとグイッと一気に飲み干した。マルは驚きに目を見開いた。タガタイ第一高等学校のシンも酒好きで、よく飲んでいたけれど、こんな荒っぽい飲み方はしていなかった。カサン人は一般的に酒に強い、とは聞くものの……。

「さあ、あんたも飲みなさいよ!」

 マルは仕方なくグラスに口を付けた。

 やがて、料理が次々と運ばれてきた。目の前にはカサン語の辞書程の大きさの肉の塊。肉は高等学校の寮で少し食べた事があるが、こんな分厚い塊は食べた事が無い。皿の前に置かれたフォークでぐさっと刺して持ち上げ、精いっぱい口を開いて頬張ると、肉汁とソースがだらだら顎を伝って落ちた。

「アチチッ……ふがふが……君は……誰と付き合ってんの?」

「あーら、そんな事聞いてどうすんの?」

「世界一可哀そうで我慢強い男がどんな男なのか知りたいな」

「まあ、失礼な事言うのね!」

 ランは細く整った眉毛を吊り上げた。

「だって君の恋人君は毎日こんな風にけなされたりなじられてるわけでしょ? そりゃもう可哀想で可哀想で……」

「あーら残念でした。あたし、彼氏の前ではこんな事しない。すごくお淑やかなレディーだって思われてる。だってあたしの演技は完璧だもの。あんたに対してだけよ。あたしがこんな事するの。だってあんた、面白いんだもん!」

「結局おらの事を野蛮な土人だと思って見下してからかってる。そういう事だね!」

「拗ねてんの? ああおかしい。フフフフ……」

「君の彼氏に君の正体をばらしてやれたらなあ!」

「あーら、それならあたしもあんたの行状を姉さんにみんな知らせてやるわ」

「平気だよ! おらは何にもやましい事はしてない」

 マルはそう言うと目の前に置かれたグラスを持ち上げ、一気に飲み干した。するとその時、マルの両肩が急に重くなった。と同時にこんな声が聞こえた。

「ほうら、よく見てごらん! 彼女の唇を! 彼女の目を!」

 また、酒の妖怪が現れたのだ! マルはランの真っ赤な唇やブルーのアイシャドーの重ねられた瞼の下の目にジーッと見入った。いささか毒々しいその顔はあの人にとてもよく似ている。その時、マルの口から突然アマン語の詩が溢れ出た。

「なんという 不思議な姉妹 顔は似て 一人は天使 一人は魔女 共に心をかき乱す 一人は金の杖を持ち 一人は黒い熊手を持って」

「え!? 何? 何ですって? もっと大きい声で言ってみなさいよ!」

 マルは首を振った。

「どうせあたしの悪口でしょ? えーい、全部吐かせてやる! もっと飲みなさい! ほら、グイッとやりなさいよ!」

 蛇のような目をしたランにグラスを突き出され、一気に飲み干す。とたんにマルの耳元に響き渡る酒の妖怪の哄笑。同時に目の前の全て……テーブル、椅子、ラン、それどころか部屋全体がグルグル回り始めた。

(まずいぞ! おらは酒の妖怪に幻覚を見せられてる)

 マルは拳骨で自分の額を叩いた。

「ねーえ。あたし、あんたにおじい様のノート、貸してあげてもいいわよ。姉さんの過去がみーんなここに書いてあるわ!」

 ランは唐突にマルの目の前でユラユラノートを揺らした。

「え……本当!?」

「それから、今日の食事代もあたしがおごる。どうせあんたお金持ってないんだから。ほーら、あたし、とっても優しいでしょ!」

 マルは相手の突然の変化とその意図を測りかねて、毒々しい色に縁どられた相手の目をジーっと凝視した。

「あらら、あたしを疑ってんの? 昔の純粋なあんたはどこ行ったのよ。あんたの顔からイボは消えたけど、今度は心がイボだらけになったみたいね」

「分かってる! というより、おらの心はきれいだった事なんか無い! もともとイボだらけなんだ!」

 マルはそのままバッタンとテーブルの上に突っ伏した。

(ヒサリ先生、信じて下さい……おらは真面目に勉強するためにここに来たんです。なのにあなたの妹にいじめられてこんなざまです……)

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