第34話 恋 15
マルは渋々、ランの後について歩いた。ランは一軒のレストランの前で立ち止まり、
「ここよ」
とマルの方を振り返った。
「まさか!」
そこは紛れもなく、先日同郷の出稼ぎ労働者が庭の花を盗んで泥棒呼ばわりされていたあのレストランだった。
「どうしたのよ! 何立ち止まってんのよ! 早く一緒に来なさいよ!」
「いや、ここはちょっと……」
マルが尻込みすると、ランの目がいきなりキューッと細くなった。かと思うと次の瞬間、サッとマルの腕に自分の腕を絡ませた。
(!!)
マルが驚いているうちに、美しい花が整然と咲くレストランの庭に引きずり込まれていた。
「ここ、すごく高いレストランじゃない?」
「トアン大学の学生ならツケがきくから平気よ」
ランはそう言いながらマルの腕を引いて建物に入って行く。
「いらっしゃいませ」
そう言って近づいて来たのは、紛れも無く、あの時アジェンナ人労働者を泥棒呼ばわりして毒づいた男だった。彼はマルに気付くやいなや、大きく目を見開いたのが分かった。マルはきまり悪さに、思わず下を向いた。男に案内されるがままに、レストランの奥へ入って行く。テーブルにつくなりランがいかにも慣れた口調で男に告げた。
「今日はスペシャルコースでお願い。お酒はそうね。『東方の暁』がいいわ」
「私はパンとお水で」
マルが言った。
「何言ってんの!? 私にだけたらふく食わせてあんたはパンと水だけですって!? 女に恥をかかせるつもり? スペシャルコースを二人前で」
「かしこまりました」
男がうやうやしく頭を下げてその場を立ち去った。
「ツケにしたらまたここにお金返しに来なくちゃいけない。なんか嫌だなあ」
「あーらどうしてよ?」
ランはそう言ったかと思うと、サッと頭を翻し、
「ウエイター! ウエイター!」
と呼んだ。
「はい、はい! 何でございましょうか!」
先程の男が再びテーブルの傍にやって来た。
「ねえ、あなた、彼と話をした事ある?」
「え、あ、はい……」
「彼はトアン大学の学生よ。知ってた?」
「そ、それは……」
「彼、さっきここに入るのをすごく嫌がったの。なぜかしら? あなたまさか、土人は店に立ち入るな、なんて言ったんじゃないでしょうね!」
「ラン! そんな事ないってば! この人はおらにカサンでは庭の花が深窓のお嬢様みたいにとても大切にされてるって事を教えてくれたんだ。ね、そうですよね」
マルがそう言ってにっこり微笑むと、相手もつられてぎごちなく笑ってみせた。
「ふーん」
ランはそう言って、マルと男を交互に見た。
「ねーえ、さっき『東方の暁』を頼んだけど、やっぱやめたわ。ここで一番強い酒を出して」
「おらに強い酒なんか飲ませてどうすんの?」
「あんたが酔っぱらってスケベな本性を出した所を見てやるの。だって面白いんだもん!そして姉さんやあのうぶな娘にぜーんぶ教えてやる!」
(酔ったって絶対ランにスケベな本性なんか見せるもんか……!)
マルはそう思いつつ両手を擦り合わせた。
「君みたいな乱暴者がオモ先生の妹だなんて信じられないな」
「あーら、姉さんは今でこそ尼僧か軍人みたいに真面目ぶってるけど、子どもの頃はすごくやんちゃだったのよ」
「子どもの頃だって? 君は確か、おらと同い年だよね! だったらヒサリ先生の子どもの頃なんか知るはずないよ。物心ついた頃にはヒサリ先生はもう随分大きかったはずだから」
「おじい様がとっても筆まめな人で、姉さんの事を日記に書いてたの」
「おじい様って、民族学者のオモ・ハガン教授の事?」
ヒサリ先生の祖父のオモ・ハガン教授は著名な民族学者で、数多くの本を執筆した偉大な人だ。「南の国のふしぎな物語」という、アジェンナに伝わる物語をカサンの子どもたちに紹介する本を書いたのもこの人で、幼い頃マルがヒサリ先生から最初にもらったカサン語の本がこれだった。
「そうよ。姉さんが七歳になるまで、おじい様のたった一人の孫だったの。だからよっぽどかわいかったんでしょうね。日記には姉さんの事がたくさん書いてある」
ランはそう言うなり、一冊の分厚い古いノートを取り出した。
「!!!」
マルが思わずノートに手を伸ばすと、ランはサッとノートを自分の方に引き寄せた。
「見せてあげないわよ! だってあんた、悪い子だもん! フッフッフ……とっても面白いのよ。姉さん、子どもの頃は神童って言われててね、すごく生意気で、おじい様の所にえらい人達が来て議論している場所に乗り込んでを言い負かしてたんですって!」
「へえ……」
マルは大人達の中で精いっぱい背伸びして肩をそびやかす幼いヒサリの様子を思い浮かべ、思わず顔をほころばせた。
「それだけじゃないのよ。姉さんは家の近所の道場でカサン古式拳法を習ってて、喧嘩も滅法強かったのよ。意地悪な男の子をたたきのめして泣かせる位おてんばだったんですって!」
「へえ……」
マルは今まで知らなかったヒサリ先生の姿を知らされ、あっけに取られた。
「ねえ、ラン、お願い! このノート、一晩おらに貸してもらえないかなあ」
「あたしがいつあんたにあたしを呼び捨てにしていいって許可出した?」
「ラン様、お願いします!」
マルが両手を合わせて頼み込むと、ランは
「フーーーーッ」
とひどく長い息を吐いた。
「……あんた、一体何考えてんの?」
「へ!?」
「クワラ・ハミを口説いておきながら姉さんの過去の過去に興味津々ってわけね。一体何ていう男よ!」
「そんな! 先生とハミさんへの思いは全く別物だ! 先生に対して持ってるのは尊敬と感謝の気持ちであって……」
「あーら、それならなんで姉さんの過去なんか知りたがるの? そんなのあんたに関係無いでしょ」
「…………」
そう言われると、マルには二の句が告げられなかった。
(そうだ。確かに……おらはなんでヒサリ先生の過去なんか知ろうとしてるんだ?)
マルは項垂れたまま、テーブルに置かれた古いノートを視線の染みが付くのではないか、という程ジットリと見詰めていた。
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