第25話 恋 6

「『青春とは恥の季節』、ですよね、ヒサリ先生……!」

 マルは学校から下宿に戻る間、カサンの諺を何度も繰り返していた。クワラ・ハミという女性に失礼な事を言って彼女の気分を害してしまった。女性と関わった経験が少ないマルには、どういった言葉が相手にとって失礼になるのか分からない。

(ナティも女の子だけど、普通の女の子とはだいぶ違ってたしなあ……)

 さらに女学生達が自分の言った事に対しやたら笑っていたのも気になる。

「おら、そんなにおかしい事言ったかなあ?」

 マルは不思議だった。自分は字は下手だけれども、カサン語の発音は良いとみんなに褒められていたのに……。しかしマルの心は晴れやかだった。女学生達の笑いはトアンの春風のようで、意地悪な感じは少しもしなかった。そして今、マルは夢にまで見た帝都、トアンにいるのだ。トアンは「帝都」というものものしい響きに反して、マルにとってどこか居心地良く感じられた。喧噪と熱気に溢れ、巨大なエネルギーが渦巻くアジェンナの首都タガタイに比べ、トアンは整然とした清潔な街だった。堅固な建物は巨大で威圧的だが、日差しはアジェンナ国に比べてずっと柔らかく、街路樹に付いている花もアジェンナで見るものに比べて遥かに優しい色合いだった。

マルは授業を終えて大学の門を出た後も、このまままっすぐ家に帰るのがおしく、日が落ちるまで少し街を散歩してみよう、と思った。サラサラと体の脇を吹き抜ける風は、まるで美しい風の精のまとう軽やかな衣のように感じられた。

 その時だった。突然耳に飛び込んで来た罵声が、マルの体を瞬時に振り向かせた。大きく立派な家の門の前で、一人の若者が男に怒鳴りつけられている。若者の肌の色は赤褐色だった。

(アマン人だ!)

 次の瞬間、マルは同郷の者らしい男の方に引き寄せられていた。

「一体どうされましたか!?」

「何だ! お前も土人か? お前らがそのつもりならこっちは警察を呼んでやる!」

赤褐色の肌の若者を怒鳴り付けていた男が、今度はマルに矛先を向ける。

「ちょっと待ってください。この人が一体何をしたんでしょうか。説明してもらえませんか?」

「うちの花を勝手に盗りやがった! 泥棒め! 土人はどいつもこいつもみんな泥棒だ!」

 マルはそれを聞いて「ああ、そういう事か」と理解した。カサンでは誰かの庭の敷地の花を勝手に取ったら罪になる。マルはそれを、幼い頃読んだカサンの絵本で知った。絵本で読んだのは、人の家に忍び込み花を盗んだ男が木に縛り付けられて折檻を受けるけれども、彼が即興で見事な花の詩を詠んだので許される、という物語だった。この話を知った時、マルは驚いた。マルの故郷のスンバ村では、花を盗んだからといって怒る人など誰もいない。

「それはそれは、お怒りになるのももっともです。ここの生垣の花はそれこそ、あなたの娘さんのように可憐で優しい姿をしてますからね。でもこの人や私の故郷では、花も随分厚かましくて、派手で大きくて、まるでおばけみたいなんです。いくら摘んでも、もう次から次へと咲くんですから! どうかこの人を許してあげて下さい! なんなら私がこの人に代わって花の詩を詠みましょうか?」

 するとカサン人の男は、

「こいつ、バカにしてるのか?」

 と言って顔をますます赤くし、こぶしを振り上げた。

(ありゃりゃ! 絵本と違うぞ! 詩じゃダメなんだな……それじゃお金で……)

マルは懐の中に手を突っ込んで、金の入った袋を取り出し、男に差し出した。生憎中は小銭ばかりだった。マルには、花を盗った罪の代償がどれ位になるのか見当もつかなかった。男は袋の中身を確かめると、一応満足したのか、自分の懐にしまった。

「外人のくせにペラペラカサン語を喋りやがって。気持ち悪い奴め!」

 男はこう言い捨てると、クルリとマル達に背を向け、門の中に消えた。

(そうか。おらがこんな顔をしているのにカサン語を話すから、おかしいんだな。女学生達に笑われるんだ)

 マルはそう思うと、いくらかほろ苦い気分になった。そのまま主の入って行った門とその向こうの建物を見渡す。門にはカサン帝国旗が掲げられている。さらにその横の看板を見て、ここがカサンの伝統食を出すレストランである事に気付いた。建物の構えからして、恐らく高級レストランだろう。

「あのう……」

 ついさっきまで怒鳴りつけられていたアマン人らしい男が、マルに遠慮がちに声をかけてきた。

「あなたはアマン人でしょう?」

 マルは彼にアマン語で声をかけた。相手は

「おおー!」

 と言って顔を輝かせた。

「あんた、アマン人かい?」

「ええ。チャヤテー川下流のスンバ村の出です」

「そうか! おらはニャイム村のもんだ。スンバ村っていやあ十年程前にダムがぶっ壊れてえらい目にあった所だろ? それでわざわざこんな所まで働きに来たのかい? まだ若いのに。見た所十五、六くらいに見えるが」

「こう見えても十八です。それから、ここには働きに来たんじゃなくて勉強しに来たんです」

「何……勉強?」

 男は目を白黒させた。

「そりゃあまた……いいご身分な事で……」

 マルは気まずくなり、とっさに話題を変えた。

「ニャイム村の暮らしはどうですか?」

「ああ、こっちもひでえもんだ。年を追うごとにどんどんひどくなっていく。昔からニャイムは貧しい村だったが、カサン帝国の支配下になってますますひどくなった。ピッポニア時代はここまでひどくはなかったが」

 マルはその言葉を聞いたとたん、聞き間違いではないかと思った。アジェンナはピッポニアの過酷な支配を脱してカサン帝国支配下に入って以降、随分発展しているはずである。

「でもアジェンナはカサン帝国領になってから豊かになったじゃありませんか。鉄道も通って、立派な道も次々出来て、学校も出来て、おらのような貧しい者も勉強出来るようになったし……」

「いんや。いい思いをしているのはお偉方やカサン人ばっかりだね。おらみてえな土地を持たねえ百姓の暮らし向きはどんどん悪くなる。お前さんはいい思いをしてるのかもしれんが……。ああ! 助けてもらってこんな事を言っちゃあいけねえな! ただね、この所、おら達はカサン人のでかい胃袋を満たすためにあくせく働いてんじゃねえかと、そんな気がしてしょうがねえ。村じゃどうにもやっていけねえから一家でこっちに働きに来たけれど、『土人、土人』とばかにされて虫けらのように扱われて、いい思いなんてひとつもした事がねえ。今日は嫁の誕生日だっていうのに、買ってやれるもんなど何もねえからちょっと花を摘んで帰ってやろうと思ったらこのざまだ」

「マルは彼の言葉を聞きながら、驚きの余り口がきけなかった。……そう、確かにカサン人の中にも悪い人はいる。カサン帝国のやり方には間違った所もある。それをマルは今はよく理解している。しかしこうもはっきりと「カサン帝国のせいで暮らしが悪くなった」と言う人がいるとは。これは一体どういう事なのか……?

 マルは同郷の男と別れ、下宿へと帰る道すがら、ずっと考え続けた。自分の部屋に戻っても、床にごろりと寝そべったまま何一つ手が付かなかった。「そんなはずはない」という思い。その一方で、自分は何か、とんでもない過ちの上にあぐらをかいているのではな、という思いが冷たい床の下からせりあがる。この気持ちを誰かに打ち明けたい。

 この時マルの頭に浮かんだのは、タガタイ第一高等学校で一緒に学んだタク・チセンだった。彼ならカサン帝国の矛盾のいくつかを指摘しつつも、「カサン帝国とアジェンナ国の進む道は大筋で間違っていない」と力強く言ってくれるのではないか。胸の内に沸いた黒雲を追い払ってくれるのではないか。

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