第23話 恋 4
扉を叩く音がした。キヤさんかと思い、
「はい」
と言って扉を開けると、そこには眼鏡をかけた小柄な男が立っていた。寒いのに驚いた事に袖の無いシャツを着たその男は、マルを見るなり唇をニーッと横に引いた。髪は肩にかかる程の長さがあり、出っ歯でどこかねずみを思わせる容貌だった。マルは相手が自分に対して笑ってきたのが嬉しくて、にっこり笑い返した。
「僕はシュシキン。タルク・シュシキン。シャク王国からの留学生。君は?」
「ハン・マレン。アジェンナ国から来ました」
「ハン・マレンっていうのはカサン語の名前じゃないか!」
「アジェンナ式の名前はマルーチャイ・アヌー・ジャンジャルバヌイといいます」
「ふうん」
シュシキンはそう言ったまま、鼻をヒクッとさせ、目をキョロキョロッと動かした。眼鏡をかけた人を間近に見るのは初めてだった。マルはその眼鏡の向こうで落ち着き無く動く目に思わず見入っていた。
「おや、そんな風に俺の事をじっと見て、さてはシャク王国の醜男が珍しいようだね」
「いや、そんな……」
「あ、楽器!」
シュシキンはそう言うやいなや、マルの脇をすり抜けて部屋の中にずかずか入り込んだかと思うと、スヴァリを手に取った。マルはひやっとした。いきなり見知らぬ男に触れられ、スヴァリが叫び出すかもしれない、と思った。
「君の故郷の楽器だね。弾いてみてくれないかい?」
「それが、弾けなくて」
「なぬ!? 弾けない?」
「ええ。この楽器は言ってみれば私にとって話し相手みたいなもんで……」
言いかけてマルは慌てて言葉を飲み込んだ。楽器が話し相手だなんて、こんな事言ったら変な奴だと思われてしまうのでは? しかしシュシキンは意外にも、マルの方にグイーッと顔を寄せたかと思うと、興奮したように眼鏡の向こうの瞳をクルクルさせながら言った。
「ああ、分かる、分かるよ! 楽器というのは故郷を思い出させてくれるものだからな!」
シュシキンはひょいとスヴァリをマルに返したかと思うと、クルリと向きを変えて自室に戻った。
「ああ、びっくりした! デリカシーの無い人ね! でもまあ悪い人じゃないみたい」
「うん。なんだか面白い人だね」
マルとスヴァリがこんなやり取りをしているうちに、シュシキンがスヴァリよりもやや大きい弦楽器を持って戻って来た。
「ほら、見たまえ。これはシャク王国の伝統的な楽器だ」
「へえ、これ、弾けるの?」
「弾けるとも! プロの演奏家程ではないけれどもね!」
シュシキンはそう言ったかと思うと、寝台に腰かけ、膝に楽器を載せ、弦に当てた弓を器用に動かし、奏で始めた。柔らかくどこか女性の声のように親しみやすい美しい旋律だった。一曲弾き終えたシュシキンが得意げにマルの顔を見返すと、マルは拍手を送った。
「ああ、素敵だなあ! 聞いてるうちに何だか真夜中の湖水に金色の光が注いでいる情景が浮かんできたよ!」
「君、勘がいいねえ! まさにこの曲は『湖水の月』っていう題なんだよ! いやあ、君に会えて本当に良かった! だいたい、トアン大学に通うエリート学生なんていうのはこういう楽器をバカにしてるからね」
「そうなんですか? カサンには素敵な音楽や歌がたくさんあるけれど」
「彼らは立派な音楽堂に正装して行っては『自分は高尚な趣味を嗜んでる』と思って満足する連中さ。こういった素朴な楽器には目もくれない。だが、僕に言わせるとこのような素朴な楽器にこそ、民族の心が宿っている!」
「まあ、素朴だなんて失礼ね!」
スヴァリが拗ねたように言う。
「この人は悪い意味で言ったんじゃあないよ」
マルはそう言ってスヴァリをなだめた。
「君は面白いねえ! 本当にこの楽器と話をしてるみたいだ! ところで君、専攻は?」
「文学です」
「そうか! 僕は工学部だ。しかし僕は文学が大好きだ。君は詩が好きかい? 僕は詩のサークルに入っている。興味があれば君を招待しよう!」
「ええ、ぜひ!」
マルはすっかり嬉しくなった。
(ああ、良かった! 下宿のおばさんも向かいの部屋の人もとてもいい人! きっとここでの生活は楽しくなるぞ!)
「さあ、腹も減ったとこだろう? 食事に行こう。キヤおばさんの料理は絶品だ!」
「はい」
マルはシュシキンと共に食堂のある一階に降りた。
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