第22話 恋 3
マルは半年前、アロンガの港から夢にまで見た帝国の都、トアンへと向かう船に乗った。マルはそこで生まれて初めて海を目にした。
海! 海! 海!
数々の物語の伝説の勇者が戦いを繰り広げた場所!
マルは幼い頃、故郷のスンバ村の川を見詰めながら、その先にある海を夢見ていた。目の前の濁った川が、エメラルドグリーンの広大な海へとつながっている事を。
マルは今、飽きる事無く海の色の変化や船の立てる波しぶきや様々な鳥が上空を飛んで行く様を見詰めながら、自分もまた冒険者になったかのような空想にふけっていた。
熱帯地域の体にまとわりつくような暑さが薄れ、肌にしゅるしゅると涼しい風が踊り始めた頃、マルの心の中で期待と不安とが大きく振り子のように揺れ始めた。
(大丈夫。恐れる事なんか無い。これから向かうのはヒサリ先生の生まれ故郷なんだから)
マルは自分に言い聞かせた。やがて背中のスヴァリが、
「なんなのー! なんて陰気臭い空の色! あんなの空じゃない!」
などと文句を言い出した。
「ほらやっぱり。君がそう言うのは分かってたよ。だったらついて来るなんて言わなきゃいいのに」
「まあ、ひどい! ひどい! そんな意地悪な言い方するなんて男じゃない!」
と言ってわあわあわめき始めた。マルは必死にスヴァリをなだめなければならなかった。もっともスヴァリの声はマル以外の人間には聞こえない。周りの船の乗客には、マルがボロボロの楽器に向かって一人で喋っている変人に見えたことだろう。
広大なトアンの港に着いて地図を手に佇んでいると、一人の恰幅の良い初老の女性がマルに近付いて来て声をかけた。
「あんたがハン・マレンかい?」
「はい」
「あたしはあんたの下宿の管理人だよ。ついておいで。歩くのは平気かい? ここから二十分位なんだが」
「大丈夫です」
「あたしの事はキヤって呼んでおくれ」
マルは、キヤのすぐ後ろをついて歩いた。キヤの角ばったたくましい背中がせかせかと左右に揺れているのを見ながら、
(ああ、大きな背中! これこそまさにカサン女性の背中!)
と感動を覚えた。
「ねえ、あんた、お国はアジェンナだってね」
「はい」
「もしかしてあんた、アジェンナの王子様かい?」
マルは吹き出しそうになりなった
(カサンの人にはおらが王子に見えるんだろうか? こんなにひ弱なのに。本当の王子様はもっと色黒でハンサムで陽気で女の人が大好きな男だよ!)
「もちろん違います。こんな格好した王子様なんていますか?」
「ひょっとしてって思ったんだよ。こないだまでうちで下宿していた子は、ここに来た時服も着てなかったんだから! 上半身は素っ裸で、腰に葉っぱを巻き付けてるだけさ! でも聞けばククール諸島の王子だっていうじゃないか! カサン人の中にはあんた達留学生を貧しい国から来た人たちだって見下す人もいるけど、実際の所、お国じゃあ王子様や貴族様だったりするからね。丁重にお迎えしなくちゃね」
「そんな、どうか気を使わないで下さい。私は貧しい家の出なんです。
「貧しい家の出で、留学出来るなんて、そりゃさぞかしおつむが立派なんだろうねえ。あんた、今まで会った子の中で一番きれいなカサン語を話すね」
「字は一番汚いと思いますけど」
「色々心配な事があるだろうけど、なんでもあたしに言いな。うちは留学生専用の下宿だからね。何の心配も要らないよ。気が向いたらあんたのお国の話でも聞かせておくれ。あたしゃいろんな国の話を聞くのが大好きなんだよ」
「ええ、喜んで!」
マルは下宿の主人が好奇心旺盛な女性なのですっかり嬉しくなった。
下宿の部屋に案内され、荷をほどいている間も、絶え間なくスヴァリの文句が聞こえる。
「まあ、ひどい部屋ね! 暗いし狭いし辛気臭いし! こんな所に一日じっとしてたら気が滅入りそう!」
「そうかい? なかなか風情があると思うけどな! まさにカサンの文学作品に出て来る部屋って感じで。うわー、感激だなあ!」
「それになんでカサンの空ってこんなにどんよりしてんのよ? あれが空だなんて信じられない! 空じゃなくて沼って感じ!」
「曇ってるからだよ。晴れた日にはきっともっと明るい青空だと思うよ」
「そんなこと無い! ここの空はきっと根元から曇ってるに違いないわ!」
「空が根元から曇ってる」という言い方がおかしくて、マルは噴出してしまった。
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