第21話 恋 2

 マルが下宿先の自室に戻ると、その音を聞きつけた下宿の主人のキヤおばさんがやって来て、扉を叩いた。ストーブの燃料の石炭を一杯に入れたバケツを手にしている。

「ああ、わざわざすみません。次から自分が取りに行きます」

 するとおばさんは懐から手紙を取り出してマルに差し出した。

(あっ、ヒサリ先生!)

 マルは寒さの余り懐に突っ込んでいた手を出した。受け取る際手は大きく震え、手紙は滑り落ちた。慌てて拾い上げると、キヤおばさんはにこっと笑った。

「お待ちかねの手紙のようだね。恋人からかい?」

「いいえ! 恩師からです」

 話好きのキヤおばさんにこれ以上引き留められないように、マルは急いで部屋の中に駆け込み、雪明りの灯る窓の傍で手紙を開封した。

(あ! 写真!)

 折りたたんだ手紙の間にはヒサリ先生の写真が挟まっていた。マルは前回の手紙で、ずうずうしいお願いだとは百も承知の上でヒサリ先生に「写真を送ってほしい」と書いていたのだ。そのために自分の写真も同封した。目論見は成功した! 

この時、少し開いた窓の隙間から風が吹き込み、雪の粒がヒサリ先生の上に落ちた。

(ああ! ヒサリ先生が濡れちゃう!)

 マルは先生の手紙と写真を抱きしめたまま寝台に飛び込み、布団をかけた。部屋の中はストーブを点けなければ外と同じ位寒い。しかしマルにはストーブに火を点ける間も惜しく、布団の中でヒサリ先生の手紙を読みふけった。そして読み終えると、うっとりとヒサリ先生の写真に見入った。

 ヒサリ先生は三十歳。もっと若い頃は鋭利な刃物のようだった先生は、年齢を重ねてしっとりとした落ち着きを備え、ますます美しくなったように見える。

(ああ、先生……)

 マルは自分の胸にヒサリ先生の写真をこすりつけた。出来れば三枚送って欲しかった! 机の上に飾るため、抱きしめて寝るため、本棚の奥に大切にしまっておくため……! 手紙にはヒサリ先生が教えている学校の生徒達について書いてある。

(タガタイの生徒諸君! 君達はまだ分からないだろうけど、最高の先生に教わっているんだよ!)

 先生は自分の生活についてはほとんど書いていなかった。家庭の事も、夫の事も。その事でいくらか物足りなく感じたが、同時にもし自分がそれを読んだら、いくらかつらい思いをする事も分かっていた。

(ヒサリ先生には子どもは出来ないのかな……)

 こう考えた瞬間、マルの心の裏側が微かに疼いた。

(どうしてだろう!? おらは先生の幸せを願う事が出来ないのか?)

 マルは激しく首を振った。

(ヒサリ先生に子どもが生まれたら、ナティの甥っ子にしたみたいに名前を付けてあげるんだ)

 手紙の最後はこう結ばれていた。

「あなたは故郷ではとっくに結婚してもおかしくない年齢ですから、女性とお付き合いする事もあるでしょう。けれどもあなたは女性に優し過ぎるのが心配です。あなたを困らせる人や勉強の邪魔をするような人には毅然とした態度を取る事も必要ですよ」

 マルはこの瞬間、雲の上からいきなり地上に引き下ろされた気がした。この時、マルの頭に浮かんだのは二人の女性の顔だった。一つはふっくらとした柔らかい顔。もう一つは意地悪そうな顔。前者はクワラ・ハミ。トアン大学の教室で出会った女学生。後者はオモ・ラン。ヒサリ先生の妹だ。二人とのここ数日のやり取りを思い出しているうちに、なんとなくそれを全てヒサリ先生に見られているような気がしてきて、写真と手紙を封筒の中にしまった。マルの目に寒々とした漆喰の壁、そしてガラスのはまった窓にしきりに打ち付ける雪が映った。

(ああ……ヒサリ先生! ここの妖怪達はみんな好きですが、真冬におらの体にしがみついてくる甲冑を身に着けた奴だけは大嫌いです! おらに何にも話をしてくれないし、そいつに抱きつかれるとやたら体が震えてしょうがないんです! 昔、先生に抱きしめられた時は体が解けてゆくように気持ち良かったのに!)

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