第20話 恋 1

 ヒサリはアパートの一階のポストから分厚い封筒を取り出すと、部屋の中に持って入るのも待ちきれず、立ったまま開封した。中身を取り出すと、何枚もの便箋と一緒に入っていた写真がハラリとヒサリの足元に落ちた。ヒサリは慌てて写真を拾い上げた。

(まあ、あの子の写真!)

 恐らく写真に慣れていないからだろう。硬い表情と触れればコキコキ鳴りそうに体をこわばらせたマルがそこに写っている。ヒサリはアパートの階段を駆け上がり、部屋の扉を開いていそいそと中に入り、食卓のテーブル前の椅子を引いて座ると、さっそくかつての教え子の手紙を読み始めた。

「先生が月に一度しか送ってはならないとおっしゃるのでこれまで我慢してきました。私の胸は今にも決壊して言葉が溢れだしそうです……」

 マルは驚く程カサン語が堪能だが、残念ながら字が汚い。幼い頃に比べたらかなりきれいに書けるようになってはいるが、それも最初の方だけだ。溢れ出る言葉に手が追い付かないのか、読み進めるうちにだんだんミミズが踊るような字になっていく。縦書きのカサン語はまるで風の強い日の雨のように斜めに書かれ、最後に空いた余白にさらに文章を継ぎ足して書いている始末だ。

「先生、私は帝国の栄光の都、トアンに妖怪などいないものだと思っていました。先生もそう仰っていましたね? ところが私にはここでも妖怪達の声がはっきり聞こえるのです。おそらく私が妖人だからでしょうね! ここの妖怪達は、スンバ村の連中とはまた違って、どこか美しく、神秘的で厳かです。彼らの語る夜伽話は、私の寂しさを紛らわせてくれます……」

 ヒサリは、マルがこんな事を書いて来る事に対しもはや「おかしい」などとは思わなかった。彼は天才なのだ。彼は自分の才能や閃きを、「妖怪の声が聞こえる」という風に表現しているのだろう。ヒサリは無我夢中で教え子が書いてきたトアンの生活の報告を読みふけった。自分の生活の報告に過ぎないのに、どうしてマルが書いたらこんなに豊かで面白いのだろう? カサン人である自分はカサンの事はよく知っていると思っていたけれども、決してそんな事は無いのだ。マルはいつも、カサンについての新しい発見を私に教えてくれる……。

 マルがタガタイに着いた当初、彼があまりに頻繁に手紙を送って来るので、「手紙を読む時間も無いしあなたの勉強にも支障が出るので送ってよこすのは月に一度までにしなさい」と厳しく言い渡した。本当はいくらでも彼の手紙を読みたかったけれども、自分は彼の教師だ。彼が学問に専念するよう促す必要がある。

 しかしそれよりももっと大きな理由があった。夫のアムトに気付かれてしまったのだ。以前は夜遅くまでラジオ局で仕事をしていたアムトが、近ごろ妙に早く、自分より先に帰宅する事が多いのを不思議に思っていた矢先の事だった。部屋に入ると、アムトが仏頂面で食卓テーブルの前で腕を組んでヒサリを待っていた。彼の前にはマルからの手紙があった。封は既に切られていた。

「彼はかつての自分の教え子よ。カサン語の勉強も兼ねて自分に手紙を送ってきているの」

そう話しても、アムトの不機嫌はおさまらなかった。以来ヒサリは、帰宅するやいなや、まずポストの中を確認し、マルからの手紙を見つけると安堵してそれを読み終えるなりすぐに箪笥の奥深くにしまった。

 ヒサリは教え子をタガタイ第一高等学校を優秀な成績で卒業する程に育て上げた功績により、南部の片田舎のスンバ村から首都タガタイの小学校に移り教鞭を取る事が認められた。しかしそれはヒサリ自身が望んだ事ではなかった。

 ヒサリは南部スンバ村の土地や人々に対し愛着があった。しかし治安の悪化によって退去を余儀なくされた。十二年前、この地域にカサン帝国が建設したダムが決壊し多くの命が奪われたためにカサン帝国に反感を持つ者が多く、反カサンゲリラが多数存在すると言われ、現地人がカサン人を襲う事件も頻発していた。

 さらにヒサリがタガタイに移った理由は。ヒサリ自身の結婚である。ヒサリは最初、首都のタガタイで教える事に気が乗らなかった。タガタイでは南部で使われているアマン語とは違うアジュ語が用いられている。似ている言語ではあるが、ヒサリにはアジュ語は分からなかった。生徒達はスンバ村で教えていた貧しく周りに虐げられてきた「妖人」ではなく、みんな裕福な家の子達だった。教室には統一感があり、ナティのような反抗的な子やカッシのようにだらしない子やマルのように自由気ままな子もいない代わりに、面白みに欠けているように感じられた。それでも教える事が好きなヒサリは、ここの子ども達が成長していく様を楽しめるようになっていた。アジュ語も瞬く間に覚えた。

 ヒサリは時折、マルが送ってよこしたカサン語の手紙を生徒達の前で読み上げる事もあった。生徒達はみな目を輝かせて聞き入った。マルの手紙はそれほど面白く豊な内容を持っていた。

「ハン・マレンは南部の小さな村の出身ですが、努力してカサン語を学び、タガタイ第一高等学校を卒業して今はトアン帝国大学に留学しています。みんな彼を見習い、カサン語の勉強に励みましょう」

 生徒達はそのような栄冠を手に入れたハン・マレンがどんな少年なのか知りたがり、矢継ぎ早に質問した。

(彼がかつてイボだらけで妖人の子と呼ばれてたなんて知ったら、みんな驚くでしょうね……)

 ヒサリは手紙をかなり長い手紙を二度繰り返して読むと、自分自身とマルのこれまでに思いを馳せつつ、彼の送ってきた写真に長いこと視線を落としていた。

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