第19話 故郷の人々 10

 カッシは川べりの木のてっぺんから、マルと背の高い青年が橋を渡り切り、ダビと言葉を交わし、また歩き出すまでをじっと見つめていた。

最初に気が付いたのは、歌声だった。

(あの懐かしい歌を聞いたとたん、ああ、マルだ! って気が付いた。あんな透き通った歌声を出せるのはあいつしかいない。よっぽど木から降りて話しかけようかと思った。けれどもやめた。今、マルはカサン人みたいないい服を着てる。今のあいつに話かけたりしちゃ、おらがあいつを邪魔する事になるんだ。昔、ダヤンティおばさんによく言われたもんだ。おらがマルの事を邪魔してるって。昔のおらはその意味がよく分かんなかったが、今なら分かる。おらも大人になったからな。マルは「えらい人」になったんだ。おらとは違う世界に行くんだ。カサン帝国じゃマルみてえな貧しい妖人の生まれでも力を認められりゃえらい人になれるっていうからな……。

 おらはあいつに感謝してる。おらは勉強なんて向いてねえし、学校なんて何度やめちまおうって思ったか分からねえ。だけどあいつはその度におらを引き留めた。あの時は読み書きがあんなに役に立つもんだって分かんなかった。オモ先生がマルの作文を教室で読むたびに、あんな風に言葉をつなげる事が出来るなんて魔法みてえだって思った。あんな魔法が使えるなんてマルだけだって思った。でもな、マル、どうやらおらもちょっぴり、魔法が使えるらしいぜ。おらは今、マルがしてたみたいに紙を綴じ合わせた「ノート」ってのを懐にしまってる。一年前、おふくろが死んだ時の事がここに書いてある。読み返す度に、あの時の様子がはっきり目の前に浮かぶんだ……。

 おっそろしい位月のきれえな晩だった。おふくろの体が急に震え出したかと思うと、高い熱が出て苦しみ出した。これはまずいって、すぐ分った。おふくろはひどくたちの悪い蚊の妖怪に憑りつかれたんだ。簡単に人の命を持ってく妖怪に。おらはさっそく祈祷の準備にかかった。おふくろに、妖怪と戦う力を呼び起こす力を与える呪文を何度も唱えた。それからはおふくろと妖怪の根競べだ。おらはおふくろの枕元で何度も何度もまじないの文句を唱えた……。

 オモ先生は、そんなものに何の意味も無い、そういう時は医者に見せるべきだって言ってた。でもな……。まじないってのはちゃんと効くんだ。妖怪の力が強すぎなけりゃな。おふくろやおらはこうやって何人もの病気を治してきたんだ。オモ先生は時々正しくない事も言うけどいい人だ。信じていい人だ。おらはおふくろに憑りついた奴が相当手ごわいって分かった時、オモ先生の言う「医者」ってのにみてもらおうと思った。「医者」ならやっつけられるかもしんねえと思った。ウォン先生って人が時折川のこっち側の「診療所」ってとこにやって来て、病気の人をみてる。トンニがウォン先生の手伝いをしてるって事も知ってる。おらはこの時初めて、ウォン先生って人の所に行ってみようって思った。だけどウォン先生の診療所に近付くにつれて、おらがそんな所に行っちゃいけねえって気がしてきた。それで診療所の手前でどうしても中に入れずにじっとしてたら、ウォン先生が扉を開けて出て来た。そしておらの方をチラッと見た。「何でお前のような奴がこんな所にいるんだ」。そんな目だった。おらはその瞬間、その場から一目散に逃げておふくろの所に戻った。それからおらはおふくろにできるだけたくさん水を飲ませて、一晩まじないの文句を唱え続けた。おらにはおふくろの体の上を、邪悪な蚊の妖怪が真っ赤なを腹を見せて踊りまくっているのが見えた。おふくろは体も心も弱って、妖怪と戦う力が無くなってるのが分かった。いよいよおらの祈祷の力じゃどうにもならねえって分かった時、もう一度ウォン先生の所に行ってみようと思った。今度こそ、絶対、ウォン先生におふくろの事を話すんだって心に決めて。それで診療所の扉にたどり着いた時、ちょうどトンニが出て来た。トンニはおらなんかとは比べ物にならないくれえ頭がいいし、同じ教室で勉強してた時も話なんてした事なかった。でもトンニはおらを見て「どうした?」って聞いてきたから、おふくろの事を話した。そしたら「すぐに連れて行け」って言った。前の日にトンニに会えてりゃ良かったんだ。トンニはおふくろを見るなり、なんでもっと早く言わなかったんだって怒った。早く言えば助かったかもしれないのにって。遅かったんだ。おいらが前の日にウォン先生に話しかけられなかったせいで。

 その晩、冷たくなっていくおふくろの傍で、おらはじっと考えてた。ああ、おらはついに一人ぼっちになっちまったんだなって。おやじやおおぜいいたきょうだい達はみんないなくなって、とうとうおふくろまで。その晩だったな、おらはトンニの置いてった薬の袋に、おふくろについて思いついた言葉を書き出したんだ。なんでこんな事思いついたんだろう? おらが学校に行って読んだり書いたり出来るようになるのを、おふくろがあんなに喜んでたからかな? でも、おらは大してうまく出来ねえ。オモ先生はよくみんなに「作文」を書かせた。みんなうまかった。特にマルなんて。マルの作文が、光り輝く女神の衣なら、おらのはぼろ雑巾だ。だけど、おいらは夢中で書いてた。おふくろが食べたもの、口にしたこと、おふくろの表情……ありったけの知ってる言葉を使って。そうしてるうちに、おらは、マルのほんの何万分の一だけど、魔法が使えるって事が分かったんだ。おらは、死んだおやじやきょうだい達の事は、もうぼんやりとしか思い出せねえ。でも、おふくろの事は、この紙を読み返すたびにはっきり思い出すんだ。おふくろの表情も声も。「カッシやあい、カッシ」っておらを呼ぶ声が、一年たった今でもはっきり聞こえてくる。書くって事は、人が死なねえ魔法なんだ。おらはそう思う……。だからおらは今も、ここに今見たマルの事を書いておくんだ。顔が見えなかったのが残念だな。でもマルの着てるもの、裸足だった事、背の高い友達と一緒だった事、ダビから何か包を受け取った事。そして歌声。以前より大人の声になった、よく響く声……。さあ、書いた! この先これを読み返す度に、マルが現れるし、マルの声が聞こえて来るんだ。あいつといる時、おらはいつも楽しかった。だからおらはこれを読み返す度に、楽しい気持ちになるはずなんだ。これからずっと、ずっと、おらが死ぬその時まで……)

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