熱願冷諦
深川夏眠
熱願冷諦(ねつがんれいてい)
昔の近未来SFマンガではホースのないずんぐりした掃除機が床を自走していた。今、塵を搔き集めるのは光る眼を持った黒い円盤で、低く唸っては触角を振り回す様が地を這う虫さながらで不気味だ。息子はそいつをグレッグという愛称で呼んでいる。グレッグはわたしがこぼしたコーヒーの粉を吸い込んで充電器へ帰還した。
「OK、グレッグ。お疲れさま」
機械仕掛けの扁平な
「朝っぱらからカンベンしてよパパ。お掃除ロボットくらい一人で扱えなくて、どうするの」
本体のスイッチを押せば動くと承知している。だが、生理的な嫌悪感が
「ぼく今日は塾だからね。お洗濯たのんだよ」
息子は黒光りするサッチェルバッグを背負って出ていった。テーブルにトーストの細片。グレッグは仮眠を取っていた。
「
細身だが強靭な筋肉を秘めていそうな折り屈みのいい青年が現れた。社用車で息子を塾へ迎えに行き、食材を買って帰ったとか。
「お夕食は坊ちゃんのリクエストで――」
「名前で呼んで。
「父の
「改めまして、黒渕
「楓さんは今の会社に入る前、極道の屋敷の料理長だったんだって。出入りのすったもんだの最中に包丁を持ったまま逃げ出して、なしくずしに退職したんだよね」
「……嘘です」
楓青年は息子の大人びた悪質な冗談にも臆さず、こましゃくれたガキの扱いには慣れていると言わんばかりの笑みと共にエプロンをまとった。息子は手伝うと言って急いで着替えてきた。わたしはしょうことなしにテレビを点け、ニュースに耳を傾けていた。
しばらくすると弾けるような芳香が漂い、息子が小躍りするのがわかった。楓青年は給仕しながら簡単に献立の説明をした。わたしが漠然とビーフカツだと思っていたのはヴィール・カットレットと呼ばれる品らしい。ハーブ入りトマトソース添え、とか。副菜は野菜のコンソメスープとサラダ、和風の和え物。息子はおいしい、おいしいと、妻が実家に引き籠もって以来ついぞ見せなかった明るい表情で旺盛な食欲を示した。
「あそこの店のに似てるよね。駅の裏手の洋食屋。ママのお気に入りだったじゃない」
楓青年は息子の様子を窺って、
「そちらはお気に召しませんか?」
付け合わせのキノコのソテーをつついていた息子は、しかし、への字に結んだ口を開いて、
「食べるよ。ホントはちょっと苦手だけど」
一度箸を置き、指先をクネクネ奇妙な形に動かしてから食事を再開した。思えば朝食の前後にも、そんな動作を見せていた。
「今のは何だ?」
「おまじない。ごちそうさま」
ぼんやりしている間に二人は食器を片付け始めた。楓青年は急須で煎茶を淹れ、調理スペースの消毒にかかった。動きに無駄がないので、いるのかいないのかわからなくなってしまう。来訪者でなく、元から家に備わっていたエキップマンかと錯覚させる滑らかさ。
わたしは年季の入ったアナログプレーヤーに叔父の形見のレコードをセットして、
「折り入って相談が……」
春休みが終わるまで住み込みで家事を引き受けてほしいという要望を、楓青年と彼の所属先が快諾し、初手から大きいお兄さんに懐いた息子は世話を焼いてもらって照れながら嬉しそうにしている。
端々に目を配って磨き上げてくれるからか、家中が輝きを取り戻し始めたかに見えた。厳冬を凌いで春の訪れを待つ自然の息吹と呼応するかのように。あるいは例の一件より前、妻がまだ尋常に動き回っていた頃のごとく。
「濡れ縁からお庭へ。素敵ですね」
しかし、彼はガラス戸を締めながら言葉尻を濁した。無理もない。
「妻の希望で。最初のうちは張り切っていたんだが……」
四季折々の花が咲いては散り、また蘇るはずだったのだが、ある日たった一個のおもちゃがすべてを台無しにした。子供用のアメリカンフットボールが塀の外から飛び込んできて灌水中の妻を喫驚させたのだ。アーモンド色の扁長楕円体は睡蓮鉢の縁に当たって水を跳ね上げ、摩訶不思議な軌道を描いて陶やガラスの容器、オーナメントを毀損した。妻がよろめき、尻餅をついた弾みに手足が触れ、置き物同士がぶつかり合った挙げ句の惨事だった。妻は長年温めてきた築庭のプランをコツコツ実現させるはずだった。だが、姿なき
「災難でしたね。差し出がましいようですが、知人に造園業者がおりますよ」
「当の
「奥様は、どちらに」
「実家に帰った」
妻は悪意なき遊具の闖入によって心身に失調をきたした。そんなバカなと、わたしは思った。だが、息子に言わせると、彼女は最前からストレスを亢進させつつ辛うじてバランスを保ち、日常生活を維持していた
「知った風なことを言ったって子供は子供。じゃあ、ママは何が辛かったんだと訊ねても答えはなし」
しばらく寝たり起きたりの生活を送っていた妻は
「坊ちゃん、お寂しいでしょうに、しっかりされてますね」
「口が達者なだけだよ。年末年始はあっちの家へ泊まり込んでいた」
楓青年はダスターを手に取って小首を傾げ、
「奥様のお部屋は?」
「実はずっと掃除していない。彼女が施錠していったから。防犯カバーとかいうのを買ってきて取り付けたんだな」
「見せていただけますか」
一箇所だけ清掃できないのが気持ち悪いらしい。我々は二階へ移動した。妻の私室は固く閉ざされ、ドアノブをすっぽり覆う装具に四桁の暗証番号ダイヤルが無機質に並んでいた。
「お誕生日の日付というのが常道ですが……」
わたしと妻と息子、三通りのナンバーを続けざまに教えたが、どれもハズレだった。
夕餉が洋食のとき、息子は格別嬉しそうで、はしゃぎ気味に健啖ぶりを発揮した。
「キノコだってさ、原形とどめてなければへっちゃらだもん」
滋味深いポタージュに舌鼓。しかし、途中でカトラリーレストにスプーンを置いておまじない。
「それは何なんだ?」
「ルーティーン」
アスリートでもあるまいに。
「お代わりはいかがですか?」
「ちょっとお願い」
息子は湯気の立つスープボウルを改めて見つめ、
「ママ今晩何食べたかな」
相槌を待たず、無造作に言葉を継いで、
「あのお店でさ、キクイモのチャウダーが出たんだよね。去年の今頃。ママも喜んでた」
「今度作ってみましょうか」
「うん」
それほど足繁く通っていたのかと少し意外に思った。そんな話は聞いたことがなかった。
風邪か。耳塞感。頭も重い。芋虫のように寝床で身を縮めた。寝室はわたしと妻それぞれの書斎の間にあるが、彼女は実家へ逃げ帰る前から寄りつかず、せせこましい砦に寝椅子を持ち込んで凌いでいたと思われる。
うつらうつら、浅い眠りに落ちては目覚めることを繰り返した。そのたびに天井が歪み、髪を振り乱して泣き叫ぶ妻の顔が浮き彫りになった。瞼を閉じると夢の中は真っ暗な室内で、家具の輪郭が滲んでいた。シェーズロングの背凭れに誰かがしなだれかかり、こちらに視線を向けているらしい。恨みがましい、青い鬼火を点したような……。
「
背中にビリッと電流が走って飛び起きた。熱を伴なった痛みが縦貫していた。布団に毒虫が潜り込んだのではないか。パジャマを脱いで背筋を鏡に映した。赤い破線が刻まれていた。ピザカッターでも滑らせたかのようだった。半裸のまま
「どうかなさいましたか」
物音を聞きつけたか、楓青年が声をかけてきた。ややあってドアを開けた彼は一瞬キョトンとして、
「乾布摩擦……ではないですよね」
「冗談を言ってる場合じゃないんだ」
「寝具を替えます」
彼が出入りする間に別の寝間着に袖を通した。背骨に沿って、まだピリピリした痛みが残っていた。彼はボックスシーツを交換しかけて、
「あれ?」
振り返ると手品師に似た所作で一枚のカードを掲げていた。小さなポートレートだった。
「どうやって入ったんでしょう」
トランプを引き抜く格好で彼の手からそれを掠めた。ジョーカーは髪を結い上げた見知らぬ女の古い写真だった。時代がかったセピア色の。薄気味悪かったのは被写体が夢で見たのとそっくりな椅子に身を預けていることだった。
「お絵描きAIの作品かな」
ハイパーリアリズムよろしく写真風に描画させたのだろうと言う。人物の顔が丁寧に描き込まれ、裳裾の重厚なドレープもペチコートの皺もリアルだが、末端が雑だと。なるほど、よく見ると爪先が顔を出していそうな位置に何もないし、肘の曲がり方が不自然だった。両手を強引に省略したようでもある。
だとしたら、何年も前から潜り込んでいたのではなかろう。精々、昨年か。ならば、容疑者は二人。簡単な算術の問題だ。そう思って見つめ直すと、もっと若かった頃の妻の顔に似ていなくもない。いつかわたしが悪夢に魘されることを祈念して忍ばせたのか。だが、まだ虫刺されの説明がつかない。
「処分しますか」
楓青年はエプロンのポケットに小さな印画紙を押し込んで、
「それとも、お祓いしてもらいます?」
霊能者とも交遊があるのか。大した社交家だ。
所要で外出。氷雨に祟られ、凍てつく寒さを呪いながら安い傘を買った。分岐する道の右を選べば駅の裏手に出る。ふと、ママお気に入りの洋食屋とやらを確かめる気になった。ヘアサロン、カフェ、雑貨店、不動産会社の事務所――。
レンガ造りを模した外壁に茜色のオーニング。ガラスドアから中が見えるはずだが薄暗い。テナント募集のステッカーが無情に光っていた。在りし日は昼となく夜となく入れ替わり立ち替わり、勤め人やカップル、家族連れなどが、温もりを感じさせる灯りの下で美味を堪能していただろう。いつ閉店したのやら。取る物も取りあえず引き払った、さもなくば追い出されたか。店名の
傘を打つ雨音に耳を傾けていると何か思い出せそうな気がした。叔父の遺愛のレコードにそんな曲があった。
あの日わたしは鞄に折り畳みの傘が入ったままだったのを忘れて
レストランは不況の煽りで暖簾を下ろしたに違いない。死んだ叔父か、もしくは遺業を継いだ(と言えるほどの働きはしていない)わたしが害をなしたとは思えない。恨みを買う筋合いはない。だが、怨念という形のない代物が雨滴を含んでムクムク、ブヨブヨ膨らみ、透き通った肉塊となって
「お帰りなさいませ」
廊下を流れる暖気に頬を擽られて人心地がついた。
「息子は」
「お友達のお宅に寄ると連絡がありました。後でお迎えにまいります」
迎えという言葉が引っかかった。思い返せば――こちらが初対面と認識していた日――彼はどうして息子が通う塾を探し当てられたのだろう。
着替えてリビングへ。軽い違和感。妻が花瓶を新調したとか、アロマディフューザーにわたしの知らないオイルをセットしていただとか、そういったレベルの。普段のクセでテレビのリモコンに手を伸ばして止めた。音楽が流れているのだ。最小音量で。ターンテーブルが回っていた。ベッリーニ『3つのアリエッタ』。
「お待たせしました」
スライスオレンジとシナモンスティックを浮かべたヴァンショー。添えられたのは飲食店でしか見たことのない切り方のリンゴ。
「これは?」
「木の葉切りです」
「器用だね」
「マイ包丁を持ち込んでいますから。よく切れますよ」
「狙いは何だ。ハウスキーパーを装ってウチに上がり込んだ理由は」
彼は眉間に皺を寄せたが、すぐ、ぎこちない作り笑いに紛らせ、
「職業
「我が家はどうかね」
彼は向かいに腰を下ろしてホットグラスを覗き込み、
「家事能力のない男と小学生の二人暮らしにしては上出来、だったかな」
椰子の葉を思わせる飾り切りのリンゴをサクッと噛んで、
「問題は鍵の掛かった部屋。あれをどうにかするところまでが依頼内容なんで」
「誰の」
「坊ちゃんに決まってるでしょ。声をかけられたときは面食らった。凍るような雨の日、あなたが通り過ぎた後。雑貨店を目指して例の道を歩いてきたんですと。去り行く友への餞別を探しに。相合傘で送ってくれなんて、けったいな小僧だと思ったけど、いざこざの後でムシャクシャしてたんで、まあいいかと思って。あり合わせの材料でホットサンドを作って二人で食べましたよ」
そのときもグレッグにパン屑を片づけさせたのだろうか。
「慣れた手つきで紅茶を淹れながら、失職したなら料理番になってくれと頼まれました。パパは叔父さんの遺産を相続して悠々自適なのはともかく、ママが出ていったって満足に台所にも立ちゃしない。報酬はお年玉貯金から払うので一つよろしく。俺が何者か知っているのかと訊いたら、もちろん、あの店のシェフじゃないかって。ホールスタッフが電話注文と会計で手が塞がっていたので出来た料理を自らサーヴしたとき、顔を見て覚えてくれていたそうで。光栄の至り」
「目的は?」
「ママのプライベートルームを開放したいんですってさ。奥様はね、もうここに帰る気はないそうですよ。だから、坊ちゃんは宝物を内緒で持ち出して後でビックリさせてやるんだって、敢えて鍵の番号を聞かずに格闘中」
冷却期間を設けたつもりだったが、彼女は別離の意志を固めていたのか。
「坊ちゃんが時々やってる妙な指の動き、おまじないって当人が言ってましたけど、早くまたママと一緒にごはんを食べられますようにって意味らしい。食事のときは互いに合図を送ろう、みたいな。交感のスイッチなんでしょうかね。そして、好き嫌いをなくすのと成績を上げることが心願成就のための最重要課題。望みを叶えたかったら相応の奮励を惜しんではならない、それがママの教えだと胸を張って。偉いもんだ」
「ふうん」
「奥様は、あなたが叔父上の財産を受け継いだ後、仕事らしい仕事もしないばかりか人柄まで変わってしまったように思えて気持ちが冷めていったとか。人生なぞ努力しなくても運の巡り合わせ次第でどうとでもなる、そんな口吻や、身内の非業の死を悲しむどころか、ありがたがってでもいるかのような態度に嫌気が差して。遠回しな言い方で軌道修正を促したんですってね。裕福でも、
「楓さん、もういいよ」
不意に息子の声が割って入った。いつの間にか敷居の際に立っていた。
「ぼくの気持ちを代弁してもらった。そこまで込みの料金で」
楓青年が席を立ち、息子を座らせた。
「ぼくは最初からママについて行きたかったけど、少し時間をくれって言われたの。ママ就職先が決まったんだよ。おじいちゃんおばあちゃんちじゃなくて、二人だけでアパートを借りて暮らすんだ」
「ほう」
世事に疎い、社会経験の浅い女が、よく腹を括ったものだ。
「だから、練習だと思って、ちょっとは家事をがんばったつもり。ママを助けてあげたいから」
「どうぞ。ノンアルコール版」
楓青年は息子にホットワインもどきを勧めた。
「いただきます。さっき鍵、開いた」
「おお、ミッションクリア、おめでとう」
二人は年の離れた兄弟か友人同士のように笑顔でフィスト・バンプを交わした。
「探し物も見つかった。僕がママに贈ったプレゼントだったんだけど」
「よかったな」
「うん。楓さん、いろいろすいませんでした。ごめんね、変なことに巻き込んじゃって。ごはんずっとおいしかった。ありがとう」
「どういたしまして」
彼は大昔のヨーロッパ貴族風に腕をスッと動かして優美なお辞儀をした。わたしは蚊帳の外で紗幕越しに三文芝居を眺めていた。
他に誰もいなくなってみると妻の個室が最も居心地がよかった。本人はわたしから遠ざかってしまったが、彼女の趣味・嗜好を反映した――言わば精神を具現化した空間は縛めを解かれ、わたしを柔らかく迎え入れた。長らく換気していない狭い洋室には埃や蜘蛛の巣を含んだ湿気が充満していた。が、窓は開けなかった。カーテンも閉ざしたまま、じっとりした寝椅子に凭れて無為に時を過ごした。
わたしは叔父の突然の惨死という僥倖によって理想の家を手に入れ、その型にふさわしく妻子を按配したつもりだったが、彼女らはパズルのピースのように嵌ってはくれず、去っていった。しかし、日がな夢と
「OK、グレッグ。キャビネットの下を頼む。さっき指環を落としてしまったから」
あれほど苦手だった巨大な電動カブトムシが今では唯一の伴侶だ。薄暗がりの中、扁平なキュクロプスの眼が白く光り、触角を振るって獲物を探す。すると、彼の低い駆動音に別の気配が割って入った。静々とドレスの裾を捌く、サテンのルームシューズでも履いていそうな優雅な足音。それが扉の前でピタリと止まった。白魚のような指がしっとりとドアノブに吸いつく様が目に浮かんだ。その手がカチリと錠を掛け、キチキチとダイヤルを回して、この部屋を世界から永遠に隔絶させた。
desiderio【fine】
*2023年1月書き下ろし⇒初出は4月:くるっぷ https://crepu.net/post/1615912
**Romancerにて縦書き版を無料でお読みいただけます。
https://romancer.voyager.co.jp/?p=293562&post_type=nredit2
***雰囲気画⇒https://cdn-static.kakuyomu.jp/image/8GyWiSx3
熱願冷諦 深川夏眠 @fukagawanatsumi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます