エピローグ
靴を履きながら、伊与はもう一枚着こんでいこうかと迷ったが、結局そのまま出ることにした。
「母さん。ちょっと出掛けてくるよ」
ドアノブに手を掛けながら、奏に声を掛けた。
あのビブリオテークでの戦闘から、一ヶ月が経過していた。
奏が退院した後、すぐに秋孝の葬式を執り行った。奏と遙は詳細についてはまったく覚えておらず、秋孝の死も心臓発作と判断された。事実を知るのは伊与だけだが、それで良いと思ったし、父の裕也が家族になにも言わずに独りで行動していた理由も理解できた。こんな恐ろしいことに家族を巻き込たくなかったのだ。その気持ちは伊与も同じだ。
秋孝の葬式はしめやかに行われた。あまり人づきあいの良くない方だと思っていたが、秋孝に世話になったという人が何人も参列しての葬式で、秋孝の知らない一面を垣間見た気がした。
奏にしてみれば、この数日は現実味がなく慌ただしく過ぎ去ったことだろう。一昨日辺りから、ようやく落ち着きを取り戻した感じだ。
あの後、結界が解かれた建物内に戻ってきた構成員により、事後処理が行われた。伊与としては自分がどのような処分を受けるのか気になったが、意識を回復させた七宮と栞に「後日連絡を入れる」とだけ言われて開放された。あれから、なんの音沙汰もない。
栞は借りていたマンションを引き払っていた。カーテンが外され、伊与の部屋から室内の様子がよく見えた。いつの間に運び出したのか、家具の類はすべて消えており、生活を匂わすものはなに一つ残っていなかった。
俺の護衛が終わったんなら、それも当然だな……。
伊与は事実をすんなり受け入れた。栞と過ごした日々は元々が夢のようだったし、祖父が亡くなったことと、この手に残されたグリモワールがなければ、長い夢として処理してしまいそうだ。
「………………」
奇妙な寂寥感に肩を落として歩いていると、気配を感じた。俯いていた顔を上げた。前方に赤嶺栞が立っているのに気がついた。
約束したわけではないが、彼女とは近いうちに再会すると予感していた。だから、彼女の姿を見つけた時には、それほど意外とは思わなかった。
「久し振りね」
「……うん」
「いきなり消えて悪かったわね。後処理とかいろいろ事情があってね」
彼女は曖昧に濁したが、伊与は深く追求しなかった。三影が最後に残した言葉には真実のみが内包する重みがあった。ビブリオテークで、さっそく対応に追われていることは想像に難くなかった。
伊与は視線だけで周囲を探った。その様子に栞が苦笑する。
「安心して。私だけだから」
我知らず用心深い行動をしていたことに気づき、少しだけ気まずくなった。
「……ねえ。ビブリオテークからスカウトされたらどうする?」
伊与の心臓が大きく跳ねた。
「俺がビブリオテークのレクテューレになるってこと? それは駄目だよ。俺のグリモワールは魔術界のバランスを崩すほど強力で、どの組織にも所属しちゃいけないんだ。俺の父さんは命を賭して、こいつを逃した。俺はその意志を受け継ぐよ」
二人の間に沈黙が流れた。しかし、ほんの僅かな数秒のことだ。
「……でも、きみになにかあったら、駆けつけるって気持ちはあるよ」
「そう言ってくれると思ってた」
再び、沈黙が訪れた。栞の表情が徐々に柔らかくなる。
「今の話はついで。七宮さんがあなたの力を欲しがってたから、一応言っただけ」
「俺じゃなくて、シュヴァの力だろ?」
「レクテューレとスクラーヴェは一心同体。どちらもよ。気にしないで。言ってみただけなんだから。この話はこれでおしまい。本当は別の用があって来たのよ」
「別の用? なに?」
「約束を果たしてもらおうと思って」
「約束?」
伊与は眉をひそめた。栞と約束なんかしただろうか?
彼女との会話を思い返してみたが、そんなやり取りは記憶になかった。
「遊びに連れてってくれる約束って、まだ有効?」
あっと口を開けた。確かに言った。一緒に出掛けようと。あんな流れるような会話を、彼女は覚えていたのか。
言葉の裏側に、伊与に対する同情や憐憫の情は感じ取れなかった。また、健を失った彼女が、寂しさを紛らわすために伊与を代用に選んだということでもなさそうだ。今回の出来事を通して、栞の内側にも変わりつつあるものがあるのだろうか……。
伊与は無意識に栞の思考を分析していることに苦笑し、ごちゃごちゃ考えるのをやめた。自分は確かに彼女と約束したし、破るつもりは微塵もない。それだけで良い。
「ああ。もちろん」
栞は満面の笑みを浮かべた。まるで扉が開き光が射し込んだようで、伊与は思わず目を細めてしまった。
初めて見せた彼女の笑顔は、素直に素敵だと思える天使の微笑みだった。
〈了〉
グリモワールの死神 雪方麻耶 @yukikata
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