第32話 遠い昔に起きたこと

 空には星が瞬いているのに、視線を少し下方に向けると、街は夕焼けよりも紅く激しく燃えていた。

 ここは町から外れた街道だ。それなのに、悲鳴と泣き声が耳に痛いほど流れ込んでくる。心を絞めつけ、重たく沈める悲しい大合唱だ。


「ああ……。もう手遅れだ。僕たちは失敗した。あいつら、よほど周到に計画を練っていたのだろうね。僕たちが行動を起こした時には既に後手に回っていたんだ」


 魔術士の多くは、悪魔の強大な力で代の繁栄を目論む。それゆえ、危険を冒してでも専用のグリモワールを製作しようとする。グリモワールの有無により魔力の格差とも言える現象が起き、力を持つ魔術士は政治にまで食い込むようになった。この事態を重く見た政府は、何百冊ものグリモワールを一ヶ所に保管し、持つに相応しい魔術士を選出する機関を作った。それがビブリオテークだ。

 しかし、人間の道具になり下がることに反感を覚えた一匹の悪魔が、大規模な反乱を計画し実行した。アーシェたちビブリオテークの構成員がその情報をキャッチした時には、既に対処のしようがなかった。町は瞬く間に戦火に飲み込まれ、グリモワールは次々と運び出されてしまった。


『ずいぶんと呑気な言い草だな。奴らを全員封印するか殺すのがお主の役割だったはずだぞ』

「僕ときみのだよ」


 アーシェ・ストレィジョンは、煙草に火を点け紫煙を空に燻らせた。

 その眼には燃え盛る町は映っていない。精神を蝕みかねない人々の狂乱の声も、今は遥か遠くにしか聞こえない。


『アーシェ……』


 あまりにも穏やか過ぎる表情だった。シュヴァイツァーは、彼の心が壊れて現実逃避をしているのではないかと訝ったが、その考えは瞬時に捨て去った。

 これまで、何度この男と危ない橋を渡ったことだろう。命を危険に晒したことも一度や二度ではない。それでも、アーシェの心が折れたことなど一度もなかった。心臓が止まっても、執念だけで生きながらえるほどの精神力の持ち主なのだ。


「シュヴァ」

『……なんだ?』

「ビブリオテークは壊滅寸前。持ち去られたグリモワールは世界中に散らばってしまうだろう。もう、僕たちだけでは事態を収拾するのは不可能だ」

『諦めるのか? この世界を悪魔が蔓延る地獄にするのか?』

「おいおい、僕が今までに仕事を放棄したことがあるか?」

『ない。お主と私の手に懸かって、解決できなかった問題など一件たりともない』

「そうだろう。今回だってそうさ。必ず解決してみせる。ただし……」


 アーシェは短くなった煙草を落とし、踏みつけて火を消した。


「二人では無理だ。世界中に散らばったグリモワールを収拾するのに、何年、何十年……いや、何百年掛かるか想像もつかない」

『………………』

「人間の寿命は短い。それ以前に、反乱分子に襲われて死ぬかもしれない。僕が死ねば自動的に契約は解除されて、きみはこの世には留まれない」

『まあ、な……』

「一つだけ……きみが、きみだけはグリモワールの回収を続けられる方法がある」


 アーシェが言う前に、シュヴァにはその方法の察しがついた。そして、彼がその方法を口にするのに、どれだけ苦渋を煮詰めているのかも。


『私にグリモワールの住人になれと言うのだな?』


 グリモワールに封印されれば、世代を超えてこの世界に留まることができる。アーシェが亡くなった後も、シュヴァイツァーが使命を全うするにはこれしかない。これならば、遂行できる。できるが、それはシュヴァイツァーだけが、この世界に取り残される。永久とこしえに等しい孤独を与えることを意味するのだ。


「グリモワールを製本する技術を持つ者は、もう僕しかいない。きみはこの世で最後のグリモワールの住人となる」

『うむ』

「しかも、ビブリオテークにも登録されない、隠密性を持ったグリモワールにならなくてはならない。どんな組織だろうが一枚岩にはなれないし、きみの力は凄まじすぎる。どこにも属さない、完全に独立した立ち位置を確保しなければならないんだ」


 町からなにかが爆発する轟音が響いた。燃料に火が移ったか。


「すまない。僕なんかと組んだばかりに、きみには苦労ばかり掛ける」


 アーシェは寂しげな笑顔を見せた。

 シュヴァイツァーは、アーシェが笑ったり憂いた時に息苦しくなる感覚を覚えた。この症状がなんなのかはわからなかったが、切なくなると共にもっと彼の役に立ちたいと思うのだ。


『かまわん。私はお主だけのものじゃ。レクテューレとスクラーヴェの関係になれば、文字通り一心同体になれる』

「シュヴァ……」


 シュヴァイツァーは、自分がとんでもなく恥ずかしいことを言ったような気がして、慌てて取り繕った。この説明のつかない焦りも、アーシェと行動を共にするようになってから芽生えた感情だ。


『ただし、その命がある限り私とお主は相棒じゃ。途中で契約放棄などさせんぞ』

「もちろんだ。僕たち二人で、一冊でも多くのグリモワールを回収しよう。死が二人を分かつまで」

『うむ。死が二人を分かつまで』


 アーシェがシュヴァイツァーの手を取ったところで、伊与の目が覚めた。

 自室の天井を眺めながら、ここはどこだろうとぼんやり思う。

 上半身を起こすと冷えた空気に体が包まれ、一度大きく震えた。腕を擦ると、鳥肌が立っているのが掌から伝わった。


「……今のは、夢か?」


 闇の中で、机の上に置かれているグリモワールを凝視した。

 夢にしては生々しい現実感があった。ひょっとしたら、契約を交わしたせいでシュヴァの記憶が流れ込んできたのかもしれない。あれは、ヘルツォークの災厄後に製本されたグリモワールで、反乱分子の討伐を目的に作られたものだったのか。しかも、ビブリオテークにも存在を隠していた……。

 あの後、アーシェはどうしたのだろう……。シュヴァは俺と出会うことで孤独を癒やされただろうか……。百年以上もの孤独。自分は生活さえ保証されていれば、誰とも出会わず、誰とも会話もせずとも生きていけると思っていたが、それは真の孤独を知らないからではないのか?

 シュヴァはアーシェにかなりの信頼、もしかしたら慕情を寄せていたようだが、俺は彼女に相応しいレクテューレになれるのだろうか。

 なにかを振り払おうと、ぶるんと頭を大きく振った。


「最近、夜明け前に目が覚めることが多いな……」


 冷えた床を足裏で感じ、カーテンを開けた。所々に空の蒼が垣間見えるが、彼方まで灰色と白の斑の雲に覆われた曇天だ。

 傘の心配はなさそうだが、今日は一日中はっきりしない空模様になりそうだ。

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