第31話 グリモワールの死神
こいつ、なんてことをっ。この下は吹き抜けのエントランス。つまり、四階分の高さだ。運が良くて骨折。打ちどころが悪ければ死ぬことだってある高さだ。しかし、それはこいつも同じことっ。
「きさまっ! この程度で勝ったつもりかっ? 落ちてダメージを受けるのはきさまの方だっ!」
落下しながら絶叫する三影に対し、伊与は口角を上げた。彼はそれだけの余裕があった。
「勝ちが決定するのはこれからだ。栞っ!」
「わかってるっ!」
まるで長年コンビを組んだ関係のように、栞には伊与の勝利へのイメージがトレースできた。
「正真正銘、最後の一撃よっ! くらえっ!」
圧縮された光が解き放たれた。今までの砲撃を凌駕する純白の輝きだ。放った栞自身、目を細めるほどの眩さだった。
穿たれた光は尾を引き、軌道を変えた。三影の重力に引っ張られる追尾弾と化しているのだ。
まるで無を象徴する白い光に、三影は心底恐れを抱いた。
「うおおっ! ヴァルムフリッシュ! トリュープズィンを解除しろっ! 真上からの攻撃は逆に引き寄せてしまうっ! 早く解除するんだっ!」
『グウウ……』
三影の命令でヴァルムフリッシュは重力を消した。しかし、一度三影を目指した光弾は、そのまままっすぐ向かってくる。
「ヴァルムフリッシュ! 私を蹴れっ! あの光の軌道から逸らせるんだっ」
『グオオッ!』
ヴァルムフリッシュは三影の胸板に蹴りを放った。自動車にはねられたみたいな重たい蹴りだ。それだけに、三影の飛ばされ方は凄まじかった。
シュテルネンリヒトの光は、三影をかすめて通過した。そのままエントランスの床をぶち抜き、エネルギーが拡散されフロア全体を砕いた。大震災後の惨状のように、床が一瞬で瓦礫と化した。
「た、助かったっ! ヴァルムフリッシュ! あの小娘をトリュープズィンで圧死させてしまえっ!」
『させると思うか?』
光弾に気を取られているすきに、シュヴァイツァーがすぐ傍らまで接近していた。三影は時が止まったような錯覚に陥った。
「しまっ……!」
『しゅあっ!!』
シュヴァイツァーの鮮やかな一振りに、三影は頭が真っ白になった。だが、体を駆け抜けた衝撃は斬られたものではなく、落下による重たい一撃だった。
「ぐっ、ぐおお……」
三影が激しく打ちつけられバウンドした。全身を貫く激痛に耐えて必死に起き上がろうとするが、四肢が痺れて上手く動けなかった。
「は、は、外しやがった。間抜けめ……。千載一遇のチャンスを逃したんだ。ヴァルムフリッシュ。私を起こせ。体勢を立てなおして反撃するのだっ」
反応がなかった。レクテューレの意思を素早く汲み取り行動するはずのスクラーヴェが行動を起こさない。そんなはずはない。
「ヴァルムフリッシュ。聞こえないのか? 私を起こすんだ」
頭を上げて様子を見ると、伊与を抱えて着地するシュヴァイツァーが視野に入った。
ヴァルムフリッシュはどこにいる?
視線を巡らす。ヴァルムフリッシュの姿を捉えた。俯いて低く唸っている。挙動がおかしい。
「ヴァルムフリッシュッ! なにをしているっ!? 早くこっちに来て私を守れっ!」
ヴァルムフリッシュが三影の命に反応した。そして、焦らすようにゆっくりと近づいてきた。明らかに様子がおかしい。
「ヴァルムフリッシュ? おまえ……、どうした?」
喧嘩を仕掛ける者が近づいてくる際、離れていても殺気や怒気を孕んでいるのがわかるのと同じで、今のヴァルムフリッシュは明確な殺意を抱いているのがわかった。
「おい、ヴァルムフリッシュ?」
三影にはわけがわからなかった。契約を交わして以来、協力者として意思通りに動いていた者が、憤怒の塊となって近づいてくる。
戸惑い。混乱。焦燥。怖気。戦慄。あらゆる退潮的な感情に侵食され、余裕など一瞬で消し飛んだ。
『外すわけなかろう』
耳からするりと入ってきた言葉が、パニックに陥りきっていない三影の脳に染み込んだ。
声の主はシュヴァイツァーだった。伊与を安全な場所に座らせた彼女が、三影を見下ろしていた。
『おまえは我が契約者を危険に晒し、彼の家族を傷つけた。斬り捨てるなど楽な死に方はさせん。後悔と絶望を味わいながら死ぬのはおまえの方だ』
「…………はっ!?」
シュヴァイツァーの背筋を凍らす台詞に、三影は自分の恐ろしい推測に身震いした。そして、喉の奥底から破滅の呻き声を上げた。
「うおお……。なんてことをするんだ……。いや、そんなことできるはずない。これはなにかの間違いだ。こんなこと……」
『ふん。絶望したようだな。後悔はしてるか? その表情、実にそそるぞ。おまえとそのスクラーヴェの繋がりを切断した。これで契約は無効となった。ヴァルムフリッシュとやらはもうおまえのスクラーヴェではない。凶悪で荒れ狂う一匹の悪魔よ』
「こんなことできるはずがないっ! 悪魔がレクテューレとスクラーヴェの契約を解除するなどっ!?」
『いつ私が悪魔だと言った?』
とうとうヴァルムフリッシュが三影に触れられる距離まで迫った。ヴァルムフリッシュは掌を三影の顔面にぴたりと押し当てると、ゆっくりとした動作でそのまま床に押し付けた。
『破壊の衝動が抑えきれなくて、誰彼構わず襲いたくて仕方ないだろうな。そして、目の前におまえがいた』
シュヴァイツァーの笑みがますます醜悪に歪んでいく。これではどちらが悪かわからない。
「お、おい? やめろ……」
『カアアァア……』
ヴァルムフリッシュが生臭い息を吐き出すと、三影の頭が床にめり込み始めた。みしっと鈍い音が漏れ出る。
「やめろおぉぉぉぉっ! こんなことっ! 私の行いは崇高だったっ。すべての魔術士は等しくチャンスを与えられるべきものなんだっ! そうでなければ魔術は失われるっ! 古の技術として忘却されてしまうんだっ! 腐敗しきったビブリオテークにグリモワールを独占する権限などないっ!」
『立派な志だな。その意思は彼ら若者が引き継いでくれるだろうよ』
「嘘だっ! こんな結末っ! 私こそが正義だっ! 私の行いこそが世界に安定をもたらすものだぁぁぁぁぁっ!」
バキンッ! しばらくは記憶に残ってしまう嫌な音がエントランスに響き渡った。三影のもがく四肢が動かなくなり、叫び声も止んだ。
『小悪党の末路などこんなものよ。そしてっ!』
シュヴァイツァーはシュテルプリヒを構え、ヴァルムフリッシュに容赦なく振り下ろした。抜刀術の達人さながらの淀みない鮮やかな動きで、伊与は一部始終を見ていながらも動きを追いきれなかった。
『おまえも地獄に堕ちろ』
断面を境に、ヴァルムフリッシュの胴体がずれた。
『ゴォオオオオオオオォォオオッ!』
神経の髄にまで響き、脳の奥底まで達する断末魔。脅威という言葉ですら生ぬるかった凶悪無比の悪魔が、ただの一撃で命を刈り取られた。シュヴァイツァーを使役する立場にいるはずの伊与は、壮絶な光景に震えが止まらなかった。そして、彼女の残忍な笑みを見てすべてを理解した。
漆黒の衣装に、あらゆるものを問答無用に斬り裂く大鎌。なぜもっと早く気づかなかった。シュヴァイツァー・ヴィーテルブラッド。あれは悪魔なんかではない。もっと残忍でもっと気高く圧倒的な者。死神だ。グリモワールには天使や悪魔が棲んでいると聞かされたが、自分が邂逅したグリモワールの住人は神だったのだ。
「あ……う、あああ……」
「うっ?」
既に死亡したと思われた三影が這いずり蠢いていた。そのおぞましい姿が悪魔そのものに映り恐怖を誘った。
「こぉ……これで終わりでは……ない、ぞ。私とて、あの方の手足、に過ぎない。これからが……」
「…………」
そこまで言って、三影は崩れ落ちた。今度こそ本当に絶命したが、凄まじい執念と彼の言い掛けた言葉に、伊与は震駭した。
「伊与っ! 無事っ!?」
栞がぽっかり空いた穴から顔を覗かせていた。頬を紅潮させ、必死に伊与を呼んでいる。
三影のまだ終わりではないと告げられたことと、自分のスクラーヴェが死神だと知った衝撃はあった。それでも、彼女の声に救われた気がした。
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