【推理論】

朝詩 久楽

推理論

 吾々、人間と云う生き物は黒色火薬やニトログリセリン等の爆薬と酷似していると言える。成り方次第で天使にも悪魔にも成り得てしまうからだ。


 光を表に着飾り、闇を内に抱え持った者共で溢れ返り、怖気を震わされるほど繊細に、緻密に構成されている一つの箱庭、社会の中で私達は生きて行かなければなりません。そして、其の社会の中では、はさみの如き鋭利な狂気を懐に抱え持った悪人共が街中を堂々と常人を装いながらも平然と歩んでおります。

 一見しただけでは分かりません。ですが、の悪人共は沢蟹とよく似ている所がありまして、ひょいと近くの小石を持ち上げてみましたら、奴らは息を殺し身を小さくしてひっそりと隠れているのです。私達はそんな彼等と共に、騙し騙され、数多の迫り来る危険に付き纏われながらも暮らし、生きて行かねばなりません。残念ながら、此れが現実と云うものです。しかし、恐るる勿れ、私達には其の中で巧く生きて行くためのほこを持つ事ができるのです。もっとも、其れは刀や銃と言った、人の命を軽々と…宛ら、赤子を弄ぶ様に奪い得て了う様なもの等ではありません。そう、其の矛こそが推理なのであります。読者の皆様には此の矛の名を頭の片隅にしばらくの間、留めて置いて頂きたい。

 蒼玉せいぎょく黄玉おうぎょく金剛石こんごうせきと言った宝石の様にきらびやかな正義や徹底して創り込まれた秩序で取りつくろわれてはおりますが、本来、人間と云うものは己の内で渦巻く欲望に忠実に従い、吾が身一つで精一杯に生きている、弱き生き物であり、故に、人間と犯罪は現し世のことわりと同様、切っても切り離すことは決して適いません。此の世の悪事、所謂いわゆる『犯罪』は私達の内に潜む様々な『欲望』に端を発するものであり、欲望が一つ生まれれば犯罪もまた一つ、共鳴する様にい生まれます。仮令たとえば、『監禁』は『支配欲』を満たすため、『痴漢』は『性欲』を満たすため、『無銭飲食』は『食欲』を満たすため、『暴行』は『闘争欲』を満たすために犯され、此れらの犯罪が消える事がないのは『人間が己の欲望に抗えない』と云うことを証明していると言っても過言ではないはずでありましょう。亦、今の時代、法と云う国から私達に授けられた所謂、不可視の盾がありますが、其の盾を巧みに取り扱うにあたっては如何せん必要な知恵が海洋に満ちるうしおの様に多く、新しく発見された古書を読む様に難解極まりありません。幾千重にも絡まりあった法による定めの鎖が四方八方に隙間なく張り巡らされていることによって、私達は自身が法に縛られてしまい、むしろ犯罪の脅威から身を守る術をほとんど奪われてしまった状況にさらされているに等しいと言えるでありましょう。国家の持つ力、警察に頼るのも一つの手ではありますが、あまり其れは得策ではないと言えるでしょう。警察の彼ら、若しくは彼女らは何かしらの犯罪が起きてからでなければ重い腰を上げることはできないのです。併し、当然のことながら犯罪が起きてからでは遅いのです。ですが、読者の皆様、どうかご安心頂きたい。犯罪の脅威から身を守る術は完全に奪われた訳ではないのです。では、吾々はどうすれば良いか…。

 ここで、読者の皆様には先ほど私が述べた矛について思い出して頂きたい。そう、其の矛の名は推理であります。此の推理と云う名の矛も亦、法と云う名の盾と同様に肉眼にて見ることは敵いません。ですが、扱うに当たって必要な知恵や技量は比較的容易であると言える筈であります。此れは、あくまでも私個人の身勝手な見解なのではありますが、推理とは本来、他人ひとに頼ることなく、己が身を守るために編み出された、とても素晴らしい術なのです。此れこそ、真の護身術と言えるでしょう。そして、其の素晴らしき術は普段から鍛練を積むことによって地道に、一歩一歩ではありますが、確実に其の腕を磨くことができるのであります。仮令ば、目の前に一人の男が立って居ると致しましょう。其の男は胸倉のボタンがちぎれており、錆びた鉄の様な匂いを漂わせる赤黒い葡萄酒ワインの様な色の染みとしわの残ったスーツを身に纏っております。そして、ネクタイは歪み、緩く締められています。亦、其の男はこちら側に髭が顎や頬の一部にちらほらと剃り残されたつらを向けており、こちら側から見て、目の前の男は左の手首に腕時計を着けています。さぁ、読者の皆様は此の男からどの様な推理を行っておられることでありましょう。恐らく、私が提示した情報からは三つ、目の前に立つ一人の男の文中に明かしていない情報が得られる筈です。

 先ず、手始めに、其の男の面に着眼してみることと致しましょう。顎や頬に髭が剃り残されていると云うことから丁寧に髭剃りを行っていない。つまり、『時間に余裕のない生活を送っている』、若しくは『自分の事に関して無関心である』、亦は、『がさつな性格である』と云う様に推し量ることができるのです。更に、其の男の身に纏う皴の残ったスーツが以上の推し量りに拍車を掛けてくれましょう。

 次に、其の男の腕に付けられた腕時計に着眼してみることと致しましょう。男はこちら側から見て左の手首…つまり、男にとっては右手首に腕時計を着けています。ここで、読者の皆様、腕時計を御手元にご用意して頂きたい。若し、手近に其れがなければ想像してみて頂きたい。読者の皆様は今、左か右、どちらか一方の手に腕時計を持っております。そして、其の腕時計を普段の様に手首に掛け、各々の手加減でベルトをきちんと締め着けております。さぁ、どうでしょう、今腕時計は読者の皆様から見てどちらの手首に巻き着いておりますでしょうか。私の勝手な推し量りではありますが、大概の方々は今、利き手とは反対の手首に巻きついている筈です。どうでしょう、私の推し量りは見事的中致しましたでしょうか。考えてみれば至極当然のことなのではありますが、利き手でなければ腕時計を手首に巻き付けると云う行為を行う事はとてもではありませんが難しいのであります。亦、他にも筆を持って文字を書く等の様な作業を行う際、作業の邪魔になるからと云う理由もございます。

 最後に、其の男の服装へと着眼してみることと致しましょう。其の男の胸元のシャツのボタンはちぎれた様に外れており、服の所々には葡萄酒ワインをこぼしたかの様な染みがあります。併し、其の男から漂う香りは葡萄ぶどうの上品な香りなどではなく錆びた鉄の様な匂いなのです。以上の情報から、恐らく此の男は誰かと相当な争いを交え、第三者の人間に強く胸倉を掴まれた際にボタンか引きちぎれた。そして、此れらの要因から葡萄の様な色をした染みは誰かと殴りあった、若しくは、刃物を突き刺した際に染み付いた血痕であると考えられます。

 以上の所以ゆえんより、対象の人物の腕時計を着けている手首がどちらなのかから相手の利き手がどちらなのか、更には自分にとって其の者がどれ程危険な人間であることを推し量ることが出来るのであります。勘の良い読者の方は、もう既に、感づいておられる事でありましょう。そう、此れらの推し量りこそが立派な推理と成り得るのです。眼前にちりばめられた極めて小さく、僅かな情報を如何に多く掴み取り、其れらの得た情報から如何に想像を論理的に膨らませられるかが、推理の技術を上達させる上で最も重要な鍵と成り得るでありましょう。

 さて、長々と論じてしまいましたが読者の皆様が本作を通して知って頂きたかった事実はたった一つであります。推理を…強いては己が身を守る術を知り、其れに僅かでも構いません、片鱗の如き興味を抱いて頂きたかったのです。そして、若し、私の願いが叶い、読者の皆様に推理に対する興味が湧かれましたら是非、其れを今一度、見詰め直してみて頂きたい。周りの人間や環境をよく観察し、些細な変化を少しでも多くくみ取り、柔軟、つ論理的に想像を膨らませられる様になった暁には、読者の皆様の身に降り掛かる様々な悪事や危険から未然に己が身を守ることができる様になるでありましょう。また、其の推理の術を利己的に…所謂己のために使うか、将又はたまた利他的に…所謂読者の皆様にとって大切な者のために使うか、其れは皆様にお委ねすると致しましょう。

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