無限 last

そうして案内されたのは彼の自宅―ではなく『無限』だった。こげ茶色で統一された四人掛けのテーブルが整然と並んでいて、奥には厨房に沿うような形でL字型にカウンター席が用意されている。暖簾をくぐった僕は体温が上がったのを自覚した。雨に濡れた肌がラーメン屋の熱気に触れたからではない。


「いらっしゃい……え」


 無限、と筆で描いたような豪快な文字がプリントされた、紺色のエプロンを身にまとった父さんがそこに立っていた。


「はーい、二名様でーす」


 ふざけてピースをするおっさんに、父さんは「え、タカハシさん……これは」と相当動揺している様子だった。


「あ、カウンター席希望で」


「あ―はい」


 慌ててカウンター席に通した父さんを、「今日はもう上がりでしょ?」とおっさんが呼び止めた。顎で壁に掛けられた時計を示した彼に、父さんは「ああ、はい」と頷いた。時計は六時になる数分前だ。


「じゃあ、終わったら来て。待ってる」


 そう勝手に決定を下したおっさんに、「ちょっと待ってよ」と引き留めた。


「そんなこと聞いてないよ」


「まあまあ、そんな固いこと言うなって」


 なにがまあまあだ。軽くいなされた僕は黙り込む。大人たちはみんな、僕をまだ子供だと思ってる。父さんも母さんも、おっさんだってそうだ。


 父さんはそんな僕らにあいまいに頭を下げた後、厨房の奥に消えていった。しばらくして、若い女の人によってグラスに入った水が二つ運ばれてきた。あら、という顔になった彼女に、「よ」とおっさんは軽く手を挙げた。


「なあ」女の人が去ったあと、ふいに、彼が真面目な顔で僕を見やった。


「ちゃんと話し合ったか、引っ越しのこと」


「話し合ったよ、ちゃんと」


「本心でか?」


 僕は口をつぐんだ。彼は僕の表情を見て頷き、「なあ、明人」と僕の名を呼んだ。


「お前の父ちゃんがな、ひどく落ち込んでたぞ。明人を傷つけてしまった、判断を間違えてしまったって」


「……知らないよ」


「まあ、そうだろうけどさ」


 おっさんは難しい顔をして口をつぐんだ。僕のほうを見たり、テーブルに目を落としたりしている。じれったい、と思った。「言いたいことあるんならいえば」思わず、突き放すような言い方になった。


「この店の由来、聞いたことあるか?」


 ユライ?


 眉をひそめる。どうして今、この店の名前が関係あるんだ。


「時々、なんで『無限』なんですか、と聞かれることがある。そういうとき、俺は決まって最初に言うんだ。時間は無限ではないでしょう、とな。すると、客は怪訝な顔をする」


「そりゃそうでしょ」


 呆れてしまう。僕は横目でおっさんを見やった。客だってそんな当たり前の哲学を聞きに来たわけじゃないだろう。


「でもな」そんな僕の心情を見透かしたかのように、おっさんは続ける。


「ここは―せめてこの店にいるその時だけは、無限に時間が流れているかのようにくつろいでほしい。団らんの場にするもよし、仕事終わりでゆっくりとメシを食うもよし。とにかく、時間が有限だってことを忘れてほしいんだ。俺らはそんな店を作っていかなければいけないし、上手いラーメンを提供し続けなければいけない」


「ふうん……」


 何気ない風を装い、相槌を打った。そろそろ気づき始めていた。


「僕はその『無限』で、父さんと話し合わなきゃいけないってこと?なんで引っ越すのとか、僕の今思っていることとか」


「ああ。そうだ」


 彼は少しかすれた声で頷いた。


「俺はちょっと、席を外す」


 その言葉に、僕は大して驚かなかった。


「オニカサゴでもさばいて持ってきてやる」おっさんはそう言って席を立った。


「うん」


「あ、忘れてた。もう一つ」


 そう言って、また元の席に座った。


「ここ、多分後一年もしたらつぶれると思うぜ」


「……え?」


 どこか遠い国で起きた事件を話すときのような、さっきよりも軽い口調だった。だから、一瞬、何を言っているのかわからなかった。


 ここが、つぶれる。


 心の中で反芻した。


「無限、なのに?」


 言ってしまった後で、しまった、と思った。


「ああ」


「なんで?」


「なんでっつったって、元々何もないような田舎町だからな。俺もそれを機に、どこかへ引っ越そうかと思っている。まあ、お前らが東京へ行った後のことだが」


「……それでいいの?」


 自分の声はすがるような口調になっていた。「それでいいのって」おっさんは僕の反応に困惑したようだった。


 何を言ったって、東京に行くことはすでに決定事項だ。僕が真に納得しようがしまいが、それだけは変わらない。子供扱いされている僕だって、痛いほど理解していた。それでも、僕は勘違いしていた。いざとなったら帰る場所があって、そこには父さんの職場があるのだと。ここに、この街に帰ってくれば、そこでおっさんはいつもみたいに釣りをしているのだと。


「まあ、どうなるかは分からねえけどな」


 おっさんはそう言って笑った。さっきの驚いたような表情はどこにもない。


「引っ越したら何をするのか教えてやる」おっさんは一口水を飲んでから、再び僕を見た。


「良いよ、知ってるよ」


「まあ、そう言うなって。―まずは荷解きだな。それから家具の配置の手伝いもちゃんとしろよ」


「だから分かってるってば」


「で、隣人にあいさつに行く。そしたら、街に出ろ」


「街?」


 あっけにとられ、意図せず繰り返してしまう。さっきから驚いてばかりだ。


「探検ってこと?」


「まあ、簡単に言えばそうだが。言い換えるなら、時間を忘れて過ごせる場所を探すんだ」


 僕はまた、黙り込んだ。驚いたわけでも、呆れたわけでもない。


「自分の『無限』の場所を探すんだな」


 理解した僕に、おっさんは笑みを浮かべた。


「なかなか文学チックな言い方だ」


 そのとき、やっと父さんが私服姿で駆け付けた。おっさんはオニカサゴをふるまうためにいったん家に帰るといい、父さんは元々おっさんがいた席に腰を下ろした。


「遅くなってごめんな」


 僕は不意に、さっきの会話を伝えたくなった。この店の由来。まだ見ぬ東京という街のどこかにある、『無限』について。


「ねえ、東京ってどんな街?」


 僕の口から、そんな疑問がついて出た。

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無限 さとぅん @sato_1212

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