アルバムを見て脳裏にあふれ出したのは藍との思い出の数々だった。

 いつか藍が語った理想を思い出す。

『いつかお金が溜まったら海辺の町に住みたい。あなたと私。それと私達の子供。私が貰えなかった分の愛情を注いで育てたい』

 その幻燈が、藍といつもを送りたいそんな思いが、藍の理想をかなえたいという想いが私に文字化病への適応処置を受けることを決意させた。

 藍に相談することはできない。だから、藍に一方的に話しかけてみるということもなかった。


 決意の翌日、私は北見緑三郎に処置を受けたいという旨を伝えに、北見研究所に赴いた。

 私は研究所の扉を潜って一直線に所長室に向かった。ノックしてから所長室の扉を開けると北見が庶務机の上に鎮座し、資料を読んでいた。

「失礼します」

 入室した私を北見が一瞥してから言う。

「おはよう。水谷君」

「おはようございます。今、お時間よろしいでしょうか?」

「ああ、構わないよ」

 北見は書類を置いて庶務机から降りた。

「で、どうするんだい?」

「受けます」

「……よく考えたのか?」

「はい。もう一度妻と話すために」

 北見は口元を軽く歪め私を見た。

「……そうか、わかった。上司として言いたいことはあるが、君を尊重しよう」

 北見はそう言うと、庶務机の上にあった書類を私に手渡した。どうやら、北見は私の下す決断を見抜いていたらしい。

 北見から貰った書類は受ける手術の同意書だった。まだ認可されていないこの手術は、実験という体で行われるそうで、施術日は今日だ。

「それじゃあ、始めようか」

 そう言って北見は所長室を出る。私はその背中を追う。


「終わったよ。成功だ」

 手術は実験室で行われた。注射器で改造を施したウイルスを注射で注入するだけだった。

 まだ頭がボヤボヤとする私に北見が呼び掛けた。

 私は体を起こし北見を見る。北見は相変わらず微笑みを浮かべている。

「施術は完了した。だが、完全に適応するまで早ければ1日、遅ければ三日程掛かる。留意しておいてくれ」

「はい」

「有給はまだ残っていたね?しばらく休むといい。他の所員には私から伝えておくから今日はもう帰っていいぞ」

 北見は柔らかい声音でそう言った。私は有難く休みを貰うことにした。



 藍が北見研究所で治験に参加したのは、二人が再開してから7年、二人が結婚する1年前の夏だった。

 参加したのは、やはりお金が欲しかったからだ。この頃の藍は生きるためだけでなく、まだ大学院生であった蓮太郎を支えるためのお金を求めていた。

 お金のために藍が北見研究所で受けた実験は文字化病適応実験だった。

 藍がこのことを蓮太郎に伝えることはなかった。データ取得など諸々で1か月程かかる実験を蓮太郎にばれずに受けるというのは至難であった。藍はそれを蓮太郎と喧嘩することで解決した。蓮太郎にけしかけて、家を出て、そのまま1か月、蓮太郎と一切の連絡を取らなかった。この藍の行動は蓮太郎への見栄や虚勢が渦巻いてのことだったが、この行動が蓮太郎の心に傷を残したことは言うまでもない。

 北見研究所に来た藍は研究員の指示に従い客室に待機していた。客室の扉が開き30代前半くらいに見える男が入ってくる。

「初めまして。ここの所長の北見緑三郎と申します。よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

 挨拶はほどほどに、北見は微笑を浮かべながら説明を開始する。

「あなたには文字化病という2年前に発見されたウイルスを弱めて体内に入れるという処置を施します」

「はい」

「今のところ予想される副作用は頭痛と吐き気などの軽い症状。それと、一時的な言語障害などの重い症状です」

 説明する北見の手前で藍は手を挙げていた。

「何か質問が?」

「文字化病とはどのような病気なのでしょうか?」

「失礼、失念しておりました。文字化病は2年前に私が発見した病気です。発症例が非常に少ないことから研究はあまり進んでおりませんが、今のところ言語を失い、異言語を話すことになるという症状を確認しています」

「言語を失い異言語?」

「はい、現在地球上に存在しない言語、モジカ語を話すようになります。そして、今回の実験ではあなたにその言語が理解できるようになってもらいます」

「なるほど」

「他に質問はありますか?」

 藍は顎に手を当てて少し考えみる。藍は今聞いた情報から思考を整理する。すると、ふと藍の脳裏に疑問がよぎった。

「どうやって私はそんな言語を話せるようになるのでしょうか?」

「少し難しい話になりますので粉々にかみ砕いて話すと、改造した文字化病ウイルスを注射します。すると、体内を改造したウイルスが巡り、いずれ脳に到達し脳に停滞します。そうすれば、脳がウイルスに侵されないながらも疑似的に文字化病に罹った状態になります。その状態ではモジカ語理解できるようになります」

「なるほど」

「以上でよろしいでしょうか?」

「はい」


 このやり取りの3日後、藍は処置を受けた。

 モジカ語を理解できるようになった藍は北見の研究に大きく貢献した。それは、藍がいなければ翻訳機が完成していなかったといえるほどであった。



「起きてー」

 聞き馴染んだ声の聞き馴染んだ言葉で私は目を覚ました。

 手術を受けてから1つの夜をまたいだ。藍の言葉が理解できる。効果はもう出始めているらしい。

 私はベッドから降りカーテンをめくる。窓外には変わらずラベンダーが咲き誇っている。一昨日もあった枯れたアザレアが今日はやけに目に付いた。

 私は廊下に出て、居間へと急ぐ。朝も少しずつ暖まってきたようだ。

 私は震える手で居間の扉を開いた。居間では朝食の準備を終えた藍がダイニングテーブルに座って私を待っていた。

「おはよう」

 私はいつも通りの挨拶を藍にかけた。

「……おはよう」

 いつも通りの挨拶が私の耳朶に響く。いつも通り、私はいつも通りの幸福を噛みしめる。藍と言葉を交わせることの幸福を。


 朝食を食べ終えた私は食後のコーヒーを味わうことにした。

「藍も飲むか?」

「うん、ありがと」

 私はドリップマシンに豆とカップをセットし、ボタンを操作する。しばらくするとマシンがガラガラと音を立て黒い液体が抽出され始める。芳醇な香りが辺りに漂い、緩やかな空間が出来上がる。

 私は湯気が立つカップを藍の前に置き手前に座る。しばらくカップで揺蕩う黒い液体を啜っていると、藍が口を開いた。

「仕事は?」

 優雅にコーヒーを愉しむ夫に対する当然の疑問だろう。

「しばらく休みを貰ったんだ」

「また私への相談もなしにそんなこと」

「まあまあ」

 藍の小言が痛い。

 藍は自分が置かれている状況に気が付いていないのだろう。寂しがりの藍が自分が世界から孤立してしまっていることに気が付いていないならそれでいい。私が藍と世界を繋ごう。

 いつか約束した。藍を一人にはしないと。

 藍を一人にしないこと。それは、藍の海辺の町で暮らすという理想を叶えることで守られるのではないだろうか。

「せっかく休みを貰ったんだ。旅行に行かないか?」

「旅行?」

「うん、海辺の町まで」

「それは……」

「富山とかどう?魚が美味しいらしいし」

「……うん」

「じゃ、今から行こうか」

「えっ?」

「ほら、準備して」

 私は立ち上がり自室へと向かう。藍はいまだに呆然としていた。

「早くしないと置いてくよ」

 戸惑った様子ながらも藍は動き出した。



 東京駅から新幹線で約2時間、そこから電車に揺られて1時間。私達は雨晴駅に到着した。雨晴に来たのは綺麗な場所だと専ら噂だったからだ。

 雨晴駅から一歩出て、その噂は本当だったのだとよく分かった。

 青い海に青い空。まだ雪で白みがかっている立山連峰は青く澄んでいる。藍も景色に見とれている。

 まずは宿を探さなくては。そう思い近辺の人に聞きこむことにした。

 道中でも分かっていたのだが、やはり私は日本語とモジカ語の両方を理解できるようになっているらしい。北見には感謝してもしきれないと思った。

 しばらく聞き込みして、ここから15分程歩いたところに海が見える旅館があるという情報を手に入れた。私達はそこへ行ってみることにした。


 初夏の潮風は心地よく、歩くことは苦ではなかった。藍も言葉がなくとも楽しそうだった。

 海が目の前に広がり、海の家が隣接しているその旅館には幸いにも空きがあり、私達は二人用の部屋に通された。

 部屋は畳の匂いが満ち、よく寛ぐことができた。口コミ通り、部屋の窓からは海を見ることができた。海が波打つ音がここまで聞こえる。それが、この町の長閑さを際立ててるようだった。

 私は一度荷物を降ろし、藍に話しかける。

「いい場所じゃないか」

「そうね。本当に」

 藍は、そう言っているものの少し不機嫌そうだった。

 藍は窓際に腰を下ろし海を眺めている。

「海、見に行かない?」

 私は海を見る藍にせっかくだからと提案してみた。

 藍は無言で頷いた。



 旅館を出た私達は、旅館の真ん前にある浜辺を歩いていた。

 燦々としていた日は少し傾き、そろそろ夜が来ることを予感させた。

 サクサクと心地よい音を立てて靴は沈んでいく。揺れる波打ち際は白く濁っている。潮風が体を突き抜ける。最愛の彼女と手を繋ぎ、砂浜を歩くというのは気持ちのいいもので、私は自分達が置かれている状況など忘れつつあった。

 そうだ、今日ここに来たのはただ楽しむためじゃない。藍に提案するためだ。ここに住まないかと、ここで一緒に暮らさないかと。

 私は波打ち際辺りで足を止めた。

 どう切り出そうか。「ここで一緒に住もう!」か?それとも……。違う。藍の理想が変わっていないならどう切り出そうと藍は微笑んで頷いてくれるはずだ。

「藍」

 しゃがみ込み満ち引きする波を見ていた藍が私の呼びかけに応じ立ち上がった。

「何?」

 私が真剣な話をしようとしていることを悟ったのだろう。藍が真面目な顔で聞く。

「話がある」

「話?」

「そう、大事な話だ」

「それ今しなきゃいけない?」

「ああ」

「そう……。で話って?」

「いや、まあ、藍さ昔、海辺の町に住みたいって言ってたよね?」

「まあ」

「それでさ、二人でここに住まないか?」

「え?」

「今日来てみて分かったんだ。ここは長閑だし、綺麗だし……いい場所だと思わないか?」

「まあ、いい場所だとは思うけど……」

「じゃあさ……」

 私がそう言うと、藍は何かを決めたかのような顔つきになった。

「嫌。あなたとは行かない」

「は……?」

 氷柱を刺されたように体がが冷えていくのを感じる。

 藍に理想を拒む理由などないはずだ。

「な……んで?」

 私はかろうじて声を搾り出した。

 藍は眉間に皺を寄せ私を見る。

「あなたよ。私の理想を壊したのは。」

 藍の言っていることが理解できない。私が藍の理想を壊した?

「え?」

「私の理想って何……?言ってみて」

「海辺の町に住みたいって」

「違う。それだけじゃなかった」

 いつかの藍の言葉を思い返してみる。

『いつかお金が溜まったら海辺の町に住みたい。あなたと私。それと私達の子供。私が貰えなかった分の愛情を注いで育てたい』

 そうか。私と藍と私達の子供……。

 藍は不妊症だ。だからもう叶わない。そういうことだろうか。

「別に子供がいなくとも、私達は幸せになれるはずだ」

 藍はもう私を見てはいなかった。ざわめきながら泡立つ橙色の海を見ながら藍は続ける。

「そうね。子供がいなくとも……もうあなたがいなくとも私は幸せになれる。もういい。あなたは私を裏切った。私をもう一度孤独へと突き落としたのよ」

「は……?私は君を独りにした覚えなんてないぞ」

「まあ、あなたに覚えなんてないでしょうね。2か月前の話よ。私が不妊で悩んでいる時、あなたの母親は私を罵倒した。あなたには何度も相談したはずよ。それでもあなたは聞き入れてくれなかった」

 そうだ。あの時の私はそれを藍の妄言だと決めつけ、切り捨てた。私は一番信じなくてはならないものを信用しなかったのだ。

 そうか、その時のストレスと、私が藍の文字化病の原因だったのか。

 自分という人間に呆れる。何が「もう一度藍と話したい」だ。藍の口を閉ざしたのは自分じゃないか。

 きっともう悔いることすら私には赦されないのだろう。全て私の行いじゃないか。

「繧ゅ≧縺ゅ↑縺溘r菫。逕ィ縺吶k縺薙→縺ェ繧薙※縺ァ縺阪↑縺」 

 きっと 繧ゅ≧ 藍が 遘√r豎ゅa繧九%縺ィ繧ゅ↑縺。

 證励>證励>豬キ縺ォ豐医s縺ァ繧?¥繧医≧縺ェ邨カ譛帙′遘√r縺、縺、縺ソ霎シ繧薙□縲らァ√?閹昴r謚倥▲縺

  遯∫┯縲∵羅鬢ィ縺ョ譁ケ縺九i繧ィ繝ウ繧ク繝ウ髻ウ縺碁ウエ繧 隕九l縺ー縲√☆縺占ソ代¥縺ォ霆翫′蛛懊∪縺」縺ヲ縺?◆

「縺輔h縺ェ繧」

 縺昴≧縺ョ縺薙@縲?阯阪?霆翫↓荵励j霎シ繧薙□

 繧ィ繝ウ繧ク繝ウ髻ウ縺碁□縺ョ縺 豕「縺ョ髻ウ縺?縺代′霎コ繧翫r蛹??



 潮が満ち、半身が海に浸かっても蓮太郎はその場を離れなかった。

 深い藍色に染まった海に蓮太郎はただ『あい』を叫び続けた。暗がりの中でただ、ただ叫び続けた。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

文字化病 武田囲 @melon-fly

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画