第5話 母親


 室に入った瞬間、紅花はむせかえる程の香りに顔を歪めそうになるのを耐えた。


 体身香、か


 体身香とは麝香、桂皮、檳榔子、桂心、丁子、かっ香、霊陵香、青木香、甘松、白檀、沈香、龍脳などの香薬を調合した丸薬であり、それを昼夜に十二粒ずつ飲用することで体の体臭をかえ、内側から芳香を溢れさせることができる芳気法である。

飲用続け三日目には口中が芳ばしく香り、

さらに五日目には身体から香気を発し、

十日目には着用している衣服にも香気が移り、

二十日目にはすれ違う人も気がつく程の香気となり、

二十五日目には手や顔を洗った水までも香気が移り、

一ヶ月後には赤ん坊を抱くと赤ん坊にまで香気が移る。

万病にも効くされる妙薬である。


 この妙薬は花の豊潤な香りを放つことが出来ない無花能者によって生み出された方法であり、特殊な香薬を使用するため、一族でも裕福な家の者しか許されておらず権力の象徴でもあった。


 揃いも揃って……毎度毎度嗅がされる身になってほしいものだ。この鼻が完全に捻じ曲がってしまったらどうするんだ。

 その臭気に堪えながらも、紅花は上座に座る族長であり実の母親ー花 岐冴か きさに目を向ける。


 本家直系にだけ許された山荷葉が描かれた貝紫色の襦裙を纏い、艶のある黒檀の髪の隙間から乳白色の耳に冬真珠の耳飾りがのぞき、黒と白の対比が母の美貌を更に際立たせる。

 島でも指折りの美人と名高い母は、老いを感じさせない美貌を保ち、様々な匂いが立ち込める室の中、冷然としながら上座に座っていた。

 まるで彼女の周りだけ違う空気が流れているかのようだ。



「皆も知っての通り。本日の早朝、トォルンカの浜辺に小舟が座礁した。おそらくその舟に件の海向人が乗っていたと思われる。しかも奴はラーディカ族の者に見つからず、宇郷にたどり着いたようだ」

「……!?」

 紅花は声もなく、瞠目した。


 彼女が驚いたのには理由があった。

 この島に人間な漂着するのは不可能だからだ。

 その理由に島を取り囲む水龍様の龍界にある。 

 その龍界により島に住まう花族とラーディカ族以外の者は強制的に排除される仕組みとなっている。その証拠として、人らしき姿を保って島の漂着できないからだ。大抵が海のもずくになって消えている。腕のある船乗りとて、島の住人でなければ排除されるだろう。

 しかもあのラーディカ族に見つからなかっただと?

花族とは違い、水龍様の加護により強靭な体躯、動物並みの動体視力と嗅覚を持っている彼らの居住区を誰にも知られず無傷で通ってきただと?!


 ラーディカ族が住まう居住区から花族の居住区までは霧雨山霧雨山ムウザンを登らねばならず、慣れた者でなければラーディカ族の者でも宇郷に辿り着く前に迷子になるか高山病に罹るかのどちらかである。それほどまでに花族は秘匿されており、宇郷に無事に辿り着くにはいくつもの難所があるのだ。

 その難所をいとも簡単に潜り抜けた男。



「百年ぶりの海向人のお出ましだ。丁重にもてなそうではないか。」

滅多に笑うことのない母が、誰もが見惚れるほどの顔で微笑む姿に背筋に冷えるのを感じた。

「そこで、花紅花。お前にはやってもらいたいことがある」

「了解いたしました」

「……お前は、内容も聞かずに頷くか。まぁいい、元からお前に拒否権など無いからな。お前には件の海向人の監視役となり、彼とともに衣食住を共にし、その身を持って籠絡せよ」


 ろう、らく?


「岐冴様。籠絡せよとはどういうことでしょう?まだ外門守兵隊長殿は十七に成られたばかり。若い男女が衣食住を共にするなど、女の身である紅花様に何かあってからでは遅いですよ」

「何を言ってもいる。そんなことあれば紅花もろとも処理するのみ」

「っ!」

 処理……この母親は、相変わらず変わらない。母が意味する処理とは、処刑という意味だ。

 母は冷徹な人だ。たとえ血が繋がっていうと、お構いなしだ。実の娘が外門を超えただけで、一ヶ月間一筋の光もささない洞窟に閉じ込め、生きるのに必要最低限の食事しか与えない母親だ。カーシュカイの懇願がなければ、一ヶ月といわず半年も閉じ込められていたかもしれない。


 普通の子供なら三日もあんなところにいれば精神を病み廃人になっていただろう。

 そうならなかったのも、カーシュカイのおかげだ。

 そう、この人に期待するだけ、無駄なのだ。殺意すら抱くのも諦めた。

「了解いたしました、族長様の仰せのままに。」


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幻島の紅花の一生 佐波 青 @houro916

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