(回答) アリスの大災禍

 一日たっても、二日たっても、三日たっても、経理部から「シンカワ氏からの入金を確認しました」という報告はあがってこなかった。僕は、上司に嫌味を言われる前に、三日目の午後、シンカワ氏をもう一度訪ねることにした。


 シンカワ氏は第4セクターにあるマンションに、ドールと住んでいる。息子さん家族が近くに住んでいるらしいけれど、アリスの大災禍以来疎遠気味だとか。きっと、亡くなった奥さんが二人の間をとりもっていたに違いない。


(いつも、この前みたいな行動をとられていたら、そりゃ、気まずいかも……)


 僕は資料を眺めながら、先日のシンカワ氏の行動を思い返していた。もらったブレスレットはかばんの中にはいったままだ。だいぶ光は弱弱しくなってきたけれど、まだ少し光っている。


 ぼおっと考えているうちに目的地について、エアーカーの扉が音もなく開いた。

 僕はエアーカーから降りると、息を吸って、ふうっと吐いた。

 シンカワ氏にはアポは取っていないけれど、基本家にいるはずだ。今日は、シンカワ氏の雰囲気にのまれずに、ちゃんと手続きまでしてこようと心に誓う。


「―― ヒロロン」


 突然、後ろから声をかけられ、僕は振り返った。そこには、黒いスーツをきたシンカワ氏が立っていた。今日は、かぶりものもなし、ブレスレットもなし。ただ、手には大きな花束を持っていた。この前の軽薄さは微塵も感じられない。軽薄というよりも威厳に満ちたご老人だ。


(今日はずいぶん雰囲気が違うものだな……)


「こんにちわ。あの」と僕が話す言葉を遮るように、シンカワ氏は自分の人差し指を僕の唇にあてた。


「しぃー。今、重大ミッションを遂行中なんじゃ。ぬしししっ」


 少しばかり口角をあげた。


 (相変わらず、よくわからないご老人だ)


 何がなんだかわからいまま頷くと、シンカワ氏は片目をつぶって指を離した。


「よおし。よっし。よしたろう。やはり、わしの見込んだ通りじゃ」


 そういうと、さっさと僕が乗ってきたエアーカーに乗り込んでしまった。僕もあわててエアーカーに乗る。シンカワ氏は勝手に行き先を入力している。


「どこに行くつもりなのですか?」

「6th sector」

「第六セクター???」

「Cenotaph」

「それって……? アリスの??」


 シンカワ氏は頷くと目をつぶり、僕の質問には何も答えてくれなかった。



 アリスの大災禍 ―――。ALIC(Artificial Living thing Industries  Center)で起こった大爆発。ドームに亀裂が入り、第六セクターの一部を隔離せざるを得なかった。磁気嵐がひどくて、取り残された研究員の救出がすすまず、大勢の犠牲を出した…………。火星の大気の成分は二酸化炭素が96%で、酸素は0.13%しか含まれていない。人間は火星の大気では生きていけないのも被害を大きくした理由。


 事故の原因は、想定外の規模の磁気嵐といくつもの偶発的なミスが重なったからだと言われている。確か、シンカワ氏が顧問をしている大手機械メーカーもその責任を取ったはずだ。


 あの日、僕はアリスの大災禍の事故現場あたりにいたらしい。らしいというのは、僕自身、ある日、気がついたら病院にいて、アリスの大災禍の被災者だと医師に説明されたから、らしいとしか言えない。


 ――― 過度のストレスによる一時的な記憶喪失。

 

 たぶん、僕の中で抜け落ちている記憶は、きっと思い出したくないつらい記憶だろう。そう考えているから、僕はあえて思い出そうとは思っていない。ただ、多くの命が失われた事故の中、運よく生き残った僕は、アリスの大災禍があったことは忘れないために、慰霊祭には毎年行くと決めている。


 そんなことを考えているうちに、エアーカーは慰霊塔の前についた。


 シンカワ氏はしっかりとした足取りで、僕を無視して、一人、慰霊塔のほうに歩いていった。僕が声をかけられるような雰囲気ではない。シンカワ氏は、持っていた花束を慰霊塔に添えると、頭を下げて小さくつぶやいた。


「…………、すまない………」


 目の前にいるのは、後悔に押しつぶされた小さな背中。


 僕はただ、黙って立っているしかできなかった…………。





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