第43話 僕らのその後


 春樹が事故に遭ってから三か月後――。


 二人は市内のマンションにいた。


「春樹、早くー」

 段ボール箱を持つ春樹に彩香は急かすように言う。

「ちょっと、まだ荷物運び終わってないんだけど・・・・・・」

 春樹は玄関前に段ボールを積み、リビングへと向かう。


 リビングで彩香は両手を広げ、リビングに接する大きな窓から景色を眺めていた。


「七階にして良かったねー」

 振り向いて彩香は春樹に笑顔で言う。


「そうだね。さすがにこの景色は四階では見られなかったね」

 景色を見る彩香に見とれて、春樹は言う。


 八階建てのこの物件を調べた時、七階と四階の物件があった。


 七階は四階よりも家賃が五千円高かったが、

 この景色を見て春樹は彩香の選択は正しいと思った。


 段ボールの荷物を運ぶ春樹の隣で、彩香は嬉しそうな顔でぬいぐるみといった軽い荷物を運んでいる。


 どうしてこうなったのか――。

 今思うと、春樹自身も不思議だった。


 1か月前――。


 仕事終わりに彩香の家に呼ばれた春樹は、

 言われるがままに彩香の作ったぶりの照り焼きを食べていた。


 数か月前までは彩香の手料理なんて食べたこと無かったのに。

 調理中の彩香を春樹は不思議な気持ちで眺めていた。


「――ねえ、春樹」

 みずなの味噌汁を飲む春樹に彩香は困ったような顔で言う。

「ん? どうしたの?」

 珍しい表情に春樹は箸を止めた。

「春樹は今の暮らし、どう・・・・・・?」

 不安そうに首を傾げて彩香は言う。

「んー、・・・・・・ん? どうって?」

 春樹も首を傾げて考えるが、彩香の言った意味がよくわからず聞き返す。

「そのさ・・・・・・。一人暮らしのことなんだけどさ・・・・・・?」

 恥ずかしそうに俯いて、彩香は戸惑ったような声で言う。

「一人暮らし? ――ああ、順調だよ?」

 春樹は何となくその顔を見て、わかった気がした。


 今なら彼女の顔を見れば、彼女の考えていることがわかるようになってきた。


「順調なの? その・・・・・・寂しくないの?」

 上目遣いのような眼差しで春樹を見つめる。

「んー、寂しいか寂しくないかって言われたら、そりゃ寂しいよ」

「そ、そうだよね・・・・・・」

「それもそのはずでさ。柴犬の頃にあんだけ一緒にいたかった人と一緒にいれる幸せを知っちゃったからさ。もうそりゃ――寂しいよ」

 春樹は何やら語り始める。


 常に誰かと共に生きている。

 そんな日々が心地よい。春樹はそう思っていた。


「そう・・・・・・って、えっ? どうしたの春樹?」

 らしくない、みたいな顔をして彩香が驚いている。

「いやー、その・・・・・・。俺は彩香と一緒にいたいなー、って」

 右手で後ろ髪をわしゃわしゃとしながら、春樹は照れながら言う。

「――っ! ・・・・・・本当に?」

 真っ赤な顔で目を見開き、彩香は不安そうな顔で言う。

「うん。彩香が良いならさ――一緒に暮らさない?」

 お互いの仕事も落ち着いてきているみたいだし、ちょうど頃合いかもしれない。


 あれから、前よりも仕事の流れが良くなった。

 視野が広がったと言うか、周りの人を見て仕事をするようになった。

 自分の中では充実してきているような気がする。


「春樹・・・・・・。それって同棲? それとも――」

 何かを期待しているような顔で春樹を見つめる。

「同棲ですね。――今は」

 春樹は焦ったような顔で即答する。

 気持ちはあるけど、それに踏み出せるほどの覚悟は今の俺には無い。

「っ。・・・・・・はい、わかりましたよ・・・・・・。よろしく、ハルちゃん」

「よろしくだわんっ――って、つい身体が」

 気がついたら右手を彩香に差し出していた。


 なんだろう、犬だった頃の感覚が三か月経っても取れない。

 というより、なんだかこの方がしっくりくるのはなぜだろう。

 春樹は不思議だった。


「ありがと、春樹」

 彩香は席から立ち上がり、落ち着いた顔で春樹に抱き着く。

「ん? どうしたの?」

 彩香の熱が直に伝わってくる。

「いやー、大好きだなーって」

 うっとりした顔で彩香は囁くように言う。

「俺も――大好きだよ」

 春樹も抱き着く彩香の耳元で囁く。

 

 僕らの熱は朝まで冷めなかった。

 

 ということがあって――現在。


「って、あれ? 俺のベッドは?」

 引っ越し業者が撤収した後、春樹は自分の部屋から出てきて不思議そうに言った。


 もうすべての荷物は置かれたはず――。

 なのに、どうして俺のベッドはないんだ。

 引っ越す前に、これも持って行ってくださいと確かに言ったはずだ。


 春樹が深く悩んでいると、彩香は無言で自分の部屋を指さした。


「ん? ――えっ」

 その矢印に従うように春樹が彩香の部屋に入ると、ベッドがあった。


 でも、それは春樹が探していた自分のベッドではなく、ましてや彩香のベッドでもない。

 初めて見る白いダブルベッドだった。


「こんなのあった? あれ・・・・・・?」

 春樹はまじまじと白いベッドを見ながら、はてなマークを浮かべている。


 見覚えのない謎のベッド。

 徐々に感じてくる嫌な予感。


 これはまさか、俗に言う――?


「その・・・・・・、春樹と二人暮らしだからさ――買っちゃった」

 てへっ、と言いそうなおちゃめな顔で彩香は言う。


 ああ、可愛い。ああ、もう正義。

 何でも許せる気がする。


 買っちゃった。

 すなわち、あれは僕らのダブルベッドであるということだ。


「ん? 買っちゃったってことは、前の俺たちのベッドは?」

 彩香の可愛さに見とれている場合ではない。


 いったい、どういうことだわん・・・・・・。


「――捨てちゃいました」


 ごめんね、と首を傾げた姿が可愛い。

 さりげなく上目遣いなのが――グッド。

 優柔不断の自分と違って、あっさりしている彩香に色々と助かっている部分もあるのも間違いない。

 それに捨ててなければ、今頃僕らの夜のわんわんベッドは存在していなかった。

 それは大いに感謝すべきところである。


「まじか・・・・・・」


 というより、いつの間に――。

 どのタイミングですり替えたのか。


 考えても、いつかわからない。

 まるで完全犯罪。さすがだよ、彩香。


「ダメだった・・・・・・?」

 しゅんとした顔で彩香はゆっくりと春樹に歩み寄る。

「んー、ダメとかではないんだけど・・・・・・、なんというかその――」


 二つのベッドを一つにするのは合理的ではある。

 春樹もそれに関しては納得していた。

 勝手にベッドが捨てられたのは驚いていたが、春樹は怒っていなかった。


 むしろ、それ以上に問題は別にある。


「その――?」

 不安そうに彩香は春樹の言葉の続きに耳を傾ける。

「――毎日、彩香と寝て正気を保てるのかが、不安になってしまいまして」

 おろおろとした口調で春樹は言う。


 柴犬の姿で彩香と一緒にベッドで寝た時のような緊張感が突然、春樹を襲う。

 なんだろう、これから聖域に入りますよ的なこの緊張感は。


「・・・・・・正気じゃなくてもいいんだよ?」

 うっとりしたような眼差しで彩香は上目遣いで見てくる。

「あ、そう? ――って、えっ?」

 普通に聞き返してから、春樹はぽかーんと口を開けている。

「私も正気じゃいられなくなるかもしれないから、その時は――ね?」

 物欲しそうな顔で同意を求めてくる彩香。

「・・・・・・よろしくお願いします」

 なぜか春樹は頭を下げる。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 なぜか彩香も頭を下げる。


 しばらくして、二人は互いに顔を上げる。



 そして、見つめ合い可笑しそうに笑った。


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幼馴染の犬(物理)になっていた件について 桜木 澪 @mio_sakuragi

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