第42話 直面する真実(3)


 閃光のような明るい世界。

 目を開けると、目の前は――天井だった。


「はっ!」

 慌てて起き上がると、そこは病院の病室のような場所だった。

 起き上がる際になんだか懐かしい感覚があり、春樹はその両手で顔を触る。


 そう。その両手で――。


「ん・・・? ・・・・・・あれ?」


 違和感が。あれ、何かがおかしい。

 まるで、人間のような感覚だ。


 首を左右にひねり、その感覚を確認する。

 ――人間の身体だ。


「なんで・・・・・・? ――夢?」

 天国へ行く前の走馬灯のような夢なのだろうか。


 すると、外で誰かが走る音が聞こえる。


 病院の中で走る非常識な人なんているんだな、なんて春樹は思った。

 その走る音は次第に近くなっていき、病室の扉は勢いよく開かれる。


 息を切らしてその扉を開いたのは―――彩香だった。


 彩香は春樹を見るなり、信じられない顔で目を見開いている。


「彩香・・・?」

 そんなに驚いてどうしたのだろうか。彩香らしくない。

「――春樹っ!」

 彩香は何かを堪えていたような顔で春樹向け、飛びつくように抱き着いた。

「えっ? どうしたの彩香?」

 いったい何がどうしたのだろうか。

「春樹、戻れたんだよ・・・・・・っ!」

 その両手で春樹の両手を掴む。

「戻れたって・・・?」

「人間に!」

 言い聞かせるように彩香は耳元で言う。

「―――えっ? えっ!?」

 春樹は驚くように叫んだ。

 その叫び声がうるさかったのか、廊下から中年の女性の看護師が慌ててやってくる。

「あっ! 池上さんが目を覚ましている・・・・・・、先生呼ばないと!」

 中年の看護師は春樹を見る度、驚いた顔で医者を呼びに病室を出て行った。

「ん? どういうこと?」

 というか、なぜ俺は病院にいるのだろうか。春樹にはわからなかった。

「実は――」

 彩香は慌てながらも、空白の二週間を説明する。


 春樹は職場の非常用階段から転げ落ちて、二週間くらい目が覚めなかった。

 その間、戸田と加担していた柏木が商品改ざんの容疑で捕まった。


 柏木たちの逮捕の事実は、数分後に来た風間から知らされる。 


「つまり、俺は事故で意識不明だったってこと?」

 風間が去った後、春樹はもう一度確認する。


 まるで犬になった二週間が無かったように――。

 事実は改変される。


「うん。そうだったみたいだね」

 隣で彩香は納得しているような顔でうんうんと頷いている。

「でも、なんで彩香は――彩香なの?」

 おかしいな、という顔で春樹は彩香に聞く。

「・・・・・・私は私だけど?」

 解せないような顔で彩香は返す。

「いや、そうじゃなくてさ。俺が人間の頃はさ・・・・・・、こんな態度じゃなかったじゃん?」

 少なくとももうちょっとドライな感じだった記憶がある。

「そりゃ・・・・・・、ハルちゃんとの記憶があるからさ・・・・・・?」

 何を思い出したのか、照れているような顔で言う。

「え、それって――俺が犬だった時の?」

「うん。なんでだろ? どうやら、私だけみたいだし・・・・・・?」

 私だけがおかしいのかな。そんな不安そうな顔をしている。

「なるほどな・・・・・・」

 だからこんな態度なのか。春樹は納得した。

「でも、良かったー」

 嬉しそうに彩香は、感触を確かめるようにすりすりと顔を寄せる。


 世界は本来あるべき姿へと改変される。


 彩香だけは俺が犬だった時の記憶がある。


 これが犬神の言った『御礼』なのかもしれない。


「にしてもさ、彩香」

 春樹はふと気づく。

「ん? なに?」

 ベッドの上でべったりと彩香は春樹にくっ付いている。

「そのさ・・・・・・。――近すぎない?」

「そう? 別に私は春樹のこと好きなんだから普通じゃない?」

「普通って・・・・・・。まあ、俺も好きなんだけど・・・・・・。そのさ、そんなにくっ付かれると胸とか当たって―――ムラムラしてくるんだよね」

 春樹の中の何かがむくむくと起き始めている感覚がある。


 ああ、人間だ。

 このむくむくの感覚――懐かしい。


「――っ! バカっ!」

 春樹は彩香の平手ビンタをくらう。


 この痛み――。

 夢じゃない。夢じゃないんだ――。


「ごめんって・・・・・・」

 頬がひりひりと痛む。


 この痛み。やっぱり、夢じゃない。

 何度も何度も実感する。


「その・・・・・・、家帰ってからならいくらでも好きにしていいからさ・・・・・・? 外はその・・・、恥ずかしいから・・・・・・」

 顔を赤くし俯き、聞き取れないくらいの小さな声で彩香は言う。

「え? それって――家ならおっぱい揉み放題ってこと?」

 春樹は雲が晴れたような明るい眼差しで言う。


 なんで俺はそんなことを口走っているのだろう。


「・・・・・・一回、躾が必要かもしれないわね。――この駄犬は」

 春樹の言葉を聞いた彩香は蔑んだ目で春樹を見つめる。

「ああっ!? 違うんだ! 違うんだよ! 本心が出てきただけで悪気はないんだよ!」

 いったい何の弁解をしているんだろう、俺は。

「やっぱり、本心じゃない! この変態!」

 そう言って、彩香はムスッとした顔で病室を出て行く。

「ごめんって!」

 そう言った時にはもう、彩香の姿は無かった。


 ――本当に良かった。


 扉の向こう。

 彩香が泣いているような声で小さくそう言っていた。


 生きていて良かった――。

 本当に良かった――。


 春樹は病室の外の空見上げ、深呼吸をする。


 ありがとう――犬神。


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