第42話 無垢なる愛

 八彩は何もない空間の中でたたずんでいた。あれほど望んだ美桜の笑顔さえも思い出せない。いや、多分思い出せないのではなく知らないのだ。少なくともこの頃の自分は。


 白い壁、白い天井、檻の向こうの白い制服。ここは鳥籠の中だ。


 気付けばキメラが周りにあふれ賑やかになっていた。始終繰り返される戯れ。すべてが退屈だった。幼少の記憶がにわかに蘇る。そうだ、自分はこんな風にして過ごしていたのだと。手指の感触はゼリーをつかむようにあやふやで明晰夢のよう。恐らく一度経験したことを思い返しているのだ。


 周囲の声が消えて白い空間と小窓の青い空だけが残った。緩やかに過ぎゆく時をあの瞬間どう捉えていたのだろう。幸せに感じたか、それとも不幸に思ったのか。眺めていると一羽の鳥が雄大に飛んでいった。鷹だ。彼の鳥のように空を舞い自由になりたくて、外の世界に憧れた。でも飛んだところで外に出られるはずもなくいつしか飛ぶことを諦めた。


 孤独な八彩は時間を見つけてはいつもと話していた。外はどんなにいいところだろう。一緒に出てみないか、と。すると決まって彼は笑う。お前は鳥籠の鳥なのだと。鳥籠の鳥は一生鳥籠の中なのだと。


(でも外に出ることができた)


 自身の声にエコーがかかり響く。すると彼が小さな八彩の訴えを笑う。



——世界は美しくも無ければ、自由でも無いかった。それはもう知っているだろう。



 懐かしい。そうだ、幼き頃自分はこんな風に自身の内なる神と話していたのだ。彼のいう通り世界は混沌として美しい物ではなかった。それでも愛してくれる人を見つけられた。だからともに在りたいと願った。


 八彩の思考を読んで彼が笑う。



——死が怖いか。



 八彩は静かに答える。無になること、思考を止めることが怖い。それでも、と八彩は言葉を継ぐ。オレはもうじき消滅する。見ることも話すことも考えることすらできなくなる。


 彼が可笑しそうに笑う。



——案ずるな、死んだのはお前の魂ではない。八彩は少し考えて言葉を発する。



「オレの魂は死んだ。オレが消えればお前も消える。なぜならお前はオレの一部だからだ」


 静かにいい終えて前を見すえると一羽のタカがたたずんでいた。孤高の気配。



——初めまして。



 心内でずっと話していたけれど会えたのはこれが初めてだった。頭の中で呼びかけてくる声で彼が人なのだろうとずっと勘違いしていた。そして初めてなのにとても懐かしい。



——死んだのはお前の一部の魂だが、それがお前のすべてではない。



 八彩は意味が分からず話に耳を傾ける。



——お前はヤイロ。八つの魂を持った合成生物キメラだ。タカの翼、ダチョウの視力、イルカの聴力、サメの歯、ゴリラの腕力、チーターの脚力、クマのツメ、そしてヒトの頭脳それらがお前のDNAに組みこまれた八つの魂だ。そして先ほど喰われたのはヒトの魂。よってお前の中の内なる神は七体となった。



 八彩は自身の掌を確認した。脈々と流れる生き物の気配を感じる。自身の物ではないともに生きる者たちの魂を。これが恐らく神の気配という物なのだろう。


「ヒトの魂を喰われればオレはヒトを捨てるのか」


 鷹はふふと笑う。



——お前自身に影響はない。対話できる神が一体死んだというだけだ。その証拠に痛くも痒くもないはずだ。それに考えてみよ。お前は始めからヒトでは無い。ヒトで無い物がヒトを捨てるなど心配するに及ばん。



「そうか、オレはヒトではないのか」

 残念に感じたけれども、ずっと分かっていたことだった。



——お前は神だ。八つの魂を宿したこの世に二つとない誇り高き魂の集合体だ。



 八彩は言葉に拳をにぎり締める。



——さあ、呼べ。自身の内なる神を目覚めさせよ。




「八彩、八彩。目を開けて美桜さんが」


 次第に近くなる声をサクヤの物だと理解した。目を微かに開けると仲間の涙顔が見える。サクヤが良かったと落涙した。にわかに明晰夢を信じられず、体を起こすと全身が砕けそうになるほど痛んで、でも生きていることは実感できた。目の前に視線を向けると幻楊が炎を立ち上らせて美桜の首をつかんでいる。その光景を目の当たりにして、頭の中で瞬間的に何かが千切れた。


 重力に逆らいながら体を引き起こすとしっかり二本の足で踏ん張り幻楊を睨みつけた。幻楊が信じられぬと驚いた様子を見せる。


「バカな、魂を喰われて意識を取り戻すだと」

「オレは誓った。美桜を守ると。今度こそ離さない」


 拳に重ねる決意。祈るように目を閉じた八彩の体から白い炎が立ち上り始めた。


「内なる神との対話。貴様も能力に目覚めたか」


 幻楊は歯がみすると美桜を投げ落として指先をふりかざす。黒炎を変化させ鵺を作り出した。八彩は応戦する幻楊の目前で言葉をいい放つ。


「お前を殺す」

「大言は口にする物ではないな」


 幻楊が笑った。刹那、八彩の声にタカの声が重なる。




——しちの神。



 八彩の背から伸びた白炎がゆっくり七つに割れて魂を形作り始めた。七つの塊の炎は収縮と拡大を繰りかえしながら次第にそれぞれの神を描く。


 現れたのは七体の気高き神の姿。タカ、ダチョウ、イルカ、サメ、ゴリラ、チーター、クマ、異形の姿に幻楊が畏怖した。


「同時に七体だと」

「あれが八彩の神なの」

「分からない。だが、手に入れたばかりの力で戦えるのかどうか」


 ベルゲンが懸念を吐いた。神々は地に降り立つと八彩を囲って静かにたたずむ。



——望みは何だ。



 低い声がした。威厳ある声に安堵する。ゴリラが逞しい腕をふり上げた。



——さあ、望んで。我々は君の力になる。



 澄んだ声はイルカだ。あいつを倒したい、美桜を助けたい。願う八彩の心にチーターが語りかける。



——お前の心の炎であいつの魂を焼き払うんだ。血に穢れた哀れな魂を。



 八彩は赤い瞳で幻楊の魂を射抜くように見つめる。オレはあいつに勝てる。


「内なる神々よ、どうか力を貸してほしい。あいつを打ち砕くだけの力を」


 神々が芽吹き溢れた輝きをまといながら鮮やかなスピードで向かっていく。


「鵺よ、私を守れ」


 鵺が牙をふりあげて立ち塞がった。呪いの眼力で神々を見据えると威嚇して大きくひと鳴きした。相対する生き物が身震いするような圧倒的神威だ。その威嚇を打ち破ってゴリラは地を蹴り、勢いそのまま剛腕を轟かせた。爆発したように突き上げる音がして顔が不規則な方角に折れ曲がりながら鵺の体が宙に舞い上がった。


「まさか」


 幻楊が呆気にとられて呟く。クマのツメが迫った。身をえぐる傷みに悶えながらなお、鵺は反撃の魂を向ける。天を蹴り身を翻した鵺は尾をなびかせ黒炎をまとい、颯爽と踏み出した。モーションをつけた覚悟の突進だ。巨体が背を波打たせながら四足で躍動する。


 チーターは狙い定めるように分析すると右へ左へ揺らぎながら徐々に加速していく。鵺を翻弄すると鮮やかに飛んで喉元へ食らいついた。鵺が激しく暴れる。二体がもみ合いになっているうちに残る者が結集して鵺へと総攻撃をしかける。なぶり殺しされるように鵺は四方八方から白炎の連打で体を撃ち抜かれた。


 震えながら立つことがやっとの巨体にサメが迫って喉元を喰いちぎると、鵺は引き裂かれるような断末魔を上げた。耐えがたい命の叫びが木霊する。昇天していく鵺の魂を見つめ幻楊は忘我した。


「馬鹿な」


 たじろぐ幻楊にイルカが光のスピードで迫った。流線形の美しき体に白炎をまといながら幻楊の体を一閃に貫く。イルカはそのまま身を翻して八彩の傍に帰還した。

燃え移った白炎は幻楊の体を激しく焼く。彼を纏っていた黒炎が次第に消失していく。空からタカが羽ばたいて白炎を煽りたてた。陣風を受けて炎は天井近く燃え盛る。


「魂が死する時だ」


 八彩は胸の前で右拳を握り祈りをこめた。静かに去れ。幻楊は苦しみの声を上げながら光に飲まれ呪いの力を消失していく。最後の黒炎が光のなかに消えて幻楊は膝を着きそのままうつ伏せに倒れた。


「やった」

「ああ」


 ベルゲンとサクヤが言葉を交わす。幻楊は眼を開いたまま死んでいた。生きているけれど、もう魂は死んでいた。みな、目を疑いたくなるような光景に茫然としていた。


「くっ」


 すべてを見届けると八彩は膝を折った。激しい精神力を要求された戦いだった。砕けそうな傷みに耐えながら、それでもと立ち上がり一歩を踏み出す。足が千切れそうに痛む。八彩の気持ちを汲み取ってサクヤは駆け寄り体を支えた。


「すまない」

「仲間だから助けんるんだよ。だから邪魔だなんていわないで」


 サクヤは泣いていた。ベルゲンもまた、反対側の体を支える。八彩は二人に支えられてその足で愛しき人の元へ歩く。傍に寄ると二人の支えを断り自身の足で歩いた。


「美桜」


 愛しい人の名を呼ぶ。もう一度、


「美桜」


 不甲斐無さでまた傷つけてしまった。そして、彼女にまた救われた。しゃがむと大切なものに触れるようにそっと抱きあげた。八彩は肩を震わせた。美桜は微かに目を開くと花のように微笑んだ。初めて会った時と同じ美麗な顔だった。


「八彩さま、あなたさまに愛され美桜は嬉しゅうございました」


 かすれる声に八彩は涙をこぼした、美桜はのどを裂かれていた。姫は桜の残り香のような頬笑みを残すと、静かに息を引き取った。

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