第40話 本尊VS本尊

 幻楊は直接の殴り合いを避けた。攻撃をひらりとかわす。コンクリートをも破壊する八彩の強拳がまるで当たらない。しなやかに舞いながらいなしている。彼は決して獅音のように力に溺れるタイプでない。瑪瑙のように残虐に相手を喰うことに喜びを感じるタイプでもない。そして自身のように玉砕覚悟で突っ切るタイプでもない。

このキメラは賢いのだ。力の使い方を知っている。能力を知り尽くしたキメラには無駄な動きが無い。そして。八彩は幻楊の体を覆う黒炎を見つめた。


(アレは触れない方がいい)


 黒炎には邪気を感じる。全身を浸せば間違いなく心を奪われる。距離を取って戦うべきだが、そうなると遠隔戦に長けていない自身には不利だ。飛ばせるのはツメの斬撃のみ。幻楊が微かに動かしたツメを見て可笑しそうに笑った。


「手段がないと見える」

「良く分かってるな」

「あなたは面白い方だ」


 ツメが空気を鮮やかに割く。幻楊はその連撃を障害物で回避しながら笑っていた。


「だがこれではあまりにつまらない」


 八彩の斬撃が機器を破砕したあと、幻楊は隠れるのを止めて攻撃に転じた。炎が腕の動きに合わせてぐっと伸び縮みする。ふりきった腕の黒炎が八彩の頬をかすめた。黒炎が肌をじりと焼いたが、八彩はそれを手の甲でぬぐった。耐えられぬほどの熱さでは無い。


「強さの秘密を教えよう」


 含みある口ぶりに眉をひそめる。まだツメ先ほどの実力も出していないということか。


「私が強い理由は宝珠が無いことと深く関係がある」


 今度は蹴りが真横から跳んできた。それを受け止める。抑えた左手がひりひりと痛む。


「あなたの存じている通り宝珠は強すぎるキメラを神社側がコントロールするために施した手枷。翠宮はあなたに去られた時、報復を恐れてあなたより強いキメラを開発しようとしたが上手くいかなかった。そこであくまで実験として研究所は劣等キメラの私から宝珠を取り去るという試みを行った。結果、私はどのキメラよりも強くなった」


 ベルゲンが疑問を口にする。


「八彩にも宝珠はない。お前が強いのであれば同じ条件の八彩はもっと強いはずだ」

「力が存分に使えればの話だ」


 背の炎が闘志に呼応し舞う。成体でないのに変態後の八彩と同等の強さがあった。


「お前の強さのカラクリがあるということか」

「左様」


 幻楊の拳が腹へと刺さった。わずかな痛みはあるけれど大した力ではない。いなそうとした直後、八彩は違和感に顔を歪ませた。腹が呪いを食らったように重い。平常時の速度が得られなくて攻撃をぎりぎりで回避した。


「ぐっ」


 交わした先へ幻楊の蹴りが跳んでくる。手でガードしたが炎が肌に触れた。八彩は次第に違和感の正体に気づき始めた。


「これが呪いというわけか」


 鉄の楔をつけたように手足が重く自由に動かせない。触れた部分が身を食われてひれ伏す獲物のように自由が利かない。顔を上げると幻楊の手が迫っていた。胸への強烈な一撃が心臓を揺さぶる。


「くっ」


 胸の苦しさに膝を突く。体が重力に逆らえない。懸命に視界を確保しようと上げた八彩のあごを幻楊が蹴り上げた。入り口近くまで吹き飛んだあと地面に伏した。


「八彩!」


 ベルゲンが庇い立ちふさがり、短銃を構えると幻楊はそれに冷視線を向けた。


「誇り高きキメラの戦いを害するのであれば。そいつの精神までも焼いて、生きたまま首を引きちぎり、やはり庭に飾るがそれでもいいか?」


 ベルゲンはあまりの残虐ぶりに言葉を失った。躊躇しながら銃を下げたのを確認すると幻楊は話を続けた。


「炎に宿る力の正体を教えよう。それは神の力だ」

「神の力」


 ベルゲンは信じられぬことを聞いた様子で問う。


「彼が食らったのは神の呪い。神とはすなわちキメラである私に宿る神」


 幻楊が自信たっぷりの表情で続ける。


「キメラは自身の内に秘める『内なる神』と契約してその力を存分に振るうことができる。宝珠とは本来キメラの能力を押さえる目的のものではない。キメラの内に秘める神の力を制御することが目的の物だ。そして私は鵺(ヌエ)のキメラ」


 黒炎が燃えあがって天井近くに達した。ニタリと笑った唇の隙間から言葉が滑り出す。


「神降ろし」


 言葉とともに炎が膨れあがった。炎は大きなひと塊となって飛び出した心臓のように大きく鼓動する。波打ちながら巨大な生き物の顔形となり、憑りついた背後霊のように大きくそびえ異形の姿を示した。サルの顔、タヌキの胴体、トラの手足、そしてヘビの尾。この世の者と思えぬおどろおどろしい姿の生き物だった。


「触れた者の機能を奪うのが鵺の能力だ。そしてあなたは鵺の炎に浸りすぎた」


 八彩をサクヤが支えた。重さに抗えず上半身を起こすだけで精いっぱいだった。


「内なる神」


 八彩は掠れた声で噛みしめた。聞いたことのない概念に信じられぬ思いだった。


「キメラ同士の戦いに敗れ、死の間際に救ってくれたのがこの鵺だった。おかげで私は強くなれた。もっとも糞尿を垂れ、恐怖したこともないあなたには分かるまい」


 そうして冷たく吐き捨てると手をかざした。


「さあ、鵺よ。神殺しの命を与えよう」


 巨大な鵺がゆっくり跳び上がり、研究所の壁という壁をグルグルと駆け巡り始めた。


「神は私一人いれば十分だ」 


 胸を押さえた。とても苦しくて、心が負けそうになる。今まで出会ったどの敵より強い。そして、間違いなく自身の敵わない異次元の相手だ。だが、幻楊の背後のシリンダーを見て呆けた頭が冷めた。暗黒に射す後光のように美しい一筋の光、美桜だ。ここで抗わなければ美桜は救えない、あの笑顔を二度と拝めない、二度と想いを交わせない。八彩は最後の力をふり絞って立ち上がり、膝を真っすぐ伸ばすと腕を構え臨戦態勢を取った。


「離れていろサクヤ」

「でも」

「早く」


 強い想いにサクヤは離れる。ベルゲンに肩を抱かれ戦況を見た。涙が一つこぼれる。


「仲間も覚悟を決めたようだ。いい残すことはあるか」


 八彩の額を汗が伝う。もう手段はない。


 周回していた鵺が天を蹴って八彩へと跳びかかった。持てる力で鵺へと一撃を繰り出し、流麗な身の運びに歯噛みする。水を殴るように実体がない。足をふり抜き体を強く蹴るがそれさえも通じずに、威圧がもつれて地を這いずる蛇のように体が重くなっていく。


 鵺は八彩の体に圧しかかると高く首をふりあげて喉元に喰らいついた。噛み口から鵺の炎が体へなだれこみ思考を焼いていく。発狂しそうになるほどの恐怖を感じて乾いた叫びを上げた。意識を保てる限界を超えると体の力がふっと抜けた。脱力して枯木のように地に倒れ、ぼやける視力でまっさらな地平を眺める。


「八彩! 八彩、やいろ……やい……」


 自身を懸命に呼ぶサクヤとベルゲンの声が遠のいて聞こえなくなり、脳裏に白の景色が訪れた。白は段々と視界を浸食して景色その物が遠ざかっていく。白に押しつぶされ視界の真ん中に唯一残ったのは桜だった。


 苦しみ喘ぎながら伸ばした指先に美桜が見える。季節外れに咲く美しき桜は愛した時と変わらぬ姿でたたずんでいる。愛しき人の綺麗な顔を忘れぬように焼きつけた。ずっと助けたかった。そのためにここまできた。でも、届かなかった。遠かった。


 愛しさをこめて美桜と呟く。もう一度美桜と呟く。もう、声さえも届けることができない。桜の残り香がそっと香る。とても美しい人だった。鵺はそのまま八彩の魂を喰い殺した。



       ◇



 鵺が音を立てて八彩を喰っている。サクヤはベルゲンの腕の中で泣いた。仲間も震えるように目を伏せる。喰い終えると鵺は満足して孤高にひと鳴きすると姿を消した。サクヤは大量の血がぶちまけていることを覚悟して恐る恐る八彩を見た。そこで目を疑う。八彩は目を瞑り倒れているだけだった。変化が溶けて人の体に戻り傷だらけの姿で。


「ベルゲン」

「ああ」


 サクヤの焦る声にベルゲンも八彩を見た。慌てて二人で駆け寄ると八彩の心臓を確認した。小さくトクトクと音を立てている。


「八彩、起きて。八彩」


 体を懸命に揺すった。ベルゲンも脈を取っている。幻楊はそのやり取りを高笑いした。


「無駄だ。魂が死んだ者は二度と目を覚まさない」

「魂が死んだだと」


 幻楊はベルゲンの問いかけに自信たっぷりに答えた。


「鵺は生き物の魂を喰う。魂を喰わせたあと私は生首を切って庭に飾る」


 嬉しさを堪えきれず不気味に幻楊が迫る。ベルゲンとサクヤも銃を構えた。せめて八彩の体を守らなくてはいけない、なのに手が震えて的が定まらない。


「人間の首には興味ないが。ともに死にたければまとめて殺してやろう」


 ツメを愛おしそうに唇の上で滑らせると冷笑する。不意に声がした。


「フレルナ」


 幻楊の脳裏に怒りが届く。肝を冷やすほどの強さだ。もう一度声がする。


「フレルナ」


 巨大生物が地を踏みならすような振動がして足元が揺れ始め、地の底から沸きおこった激情が轟く。強化ガラスをダンダンと力をこめて叩き、両手で懸命にシリンダーを揺らしている。怒りに震える声がもう一度届く。


「ヤイロサマニフレルナ」


 幻楊はまさかと眼を見開く。直後、幻楊の背後で巨大なシリンダーが蜘蛛の巣状にひび割れて煌めきながら弾けた。

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