8章 翠宮神社
第39話 黒紫のジェノサイド
「これはどういうことだ」
キメラはみな死んでいた。すでに時間が経っているのだろう、緑の吐瀉物に濡れた玉砂利もほとんど乾いている。美しいと感銘するにはあまりに残酷。茫漠の景色のなかで社の翡翠だけが輝いていた。
「宝珠が発動したんだ」
八彩が何かに惹きつけられたように歩いた。景色を確かめている。記憶の端に残っているのだろう。みな立ちつくして一様にこの景色に驚いていた。
本堂に近づくと喧騒が近くなった。人の声がする。
「誰だ」
旧時代の武器を手に氏子がよってくる。
「みんな氏子だ、キメラじゃない。あのキメラの死がいは何だ。何が起きた」
八彩が仲間を制して敵方に問いかけた。
「八彩さま!」
「八彩さまだ」
「生きておられたのか」
口々に情報が伝播して奥に伝わっていく。奥から上等の着物を纏った氏子が出てきた。
「八彩さまでいらっしゃるのか。死んだとばかり思っていました」
「栄明か、何があった」
宮にいたときに業平の傍に控えていた青二才だった。今は多くを従えているようだ。
「帝が弑されたのです」
「死んだだと、帝が」
夜明けの鷹の面々に動揺が広がる。ベルゲンもまた信じられぬ面持ちで詰めよった。
「ウソではない。幻楊が暴走したのだ」
「それを止めるために発動させたというのに」
「宝珠を。それであの死骸の山か」
ベルゲンが呆けたように愕然とした。
「幻楊?」
八彩自身、聞き覚えがなかったのだろう。そう問い返した。
「あなたさまの後任の本尊です。彼は今、キメラ研究所にいる」
「キメラ研究所」
「そこに美桜さまもおられます」
「美桜は生きているのか」
「はい」
是と頷いたのを確認して去ろうとしたのを彼が呼びとめた。
「我々はあなたさまを見捨てたのではありません」
「分かっている」
分散して数十名は本堂に残り、別の数十名は境内の状況確認に走り、そして残った十数名が八彩とともにキメラ研究所に走った。すでに制圧するのは時間の問題だろう。
八彩の背を追いかけながらサクヤは複雑な気持ちを抱いた。殺そうと思ったのに、死んでいた。結果は変わらなかったけれど、内状がずいぶん違うのだ。氏子はみな怯えていた。これが永代続いてきたキメラ政治の末路だと思うとやり切れないものが残る。
「彼らに反目しようとする意思はもうないのかしら」
「ないだろうな。帝を失った以上、従うべき者もないだろう」
「それを貫く信念が今の彼らにはない。元々甘い蜜を吸いたいがために入信した連中だ」
キメラの残骸に裂かれた人の遺体が混じって連綿と続いている。みんな高雅な夢を抱いた者たちだ。
「翠宮は終わる」
ベルゲンが静かにいった。
研究所の前にたどり着き一同は足を止めた。開け放たれた扉から恐怖の痕跡が見える。格式ある外観とは対照的に内部は最先端の設備が充実した施設のようだが機材は破断し、足元を無数の書類が埋めている。迫る死に逃げ惑ったのだろう。
「ひっ」
首のない無数の白衣にサクヤは身をすくめた。頭がそこら中に打ち捨ててある。
「ここがお前の産まれた場所か」
「すべてのキメラはここで生まれ育つ。例外はない」
マシンガンを持つ手に力が籠る。キメラがいないのにこの恐怖はなんなんだ。澱んだ冷気が心の熱を奪っていく。恐ろしい。感情が逆立っている。粘着質な恐怖が身を包んだ。
たくさんの声が聞こえる。実際には鳴いていないのに、死んでいったキメラたちの鳴き声が耳の奥にこびりつく。小さな子供のような声で鳴いている。左右のシリンダーの中を見て肝が凍りついた。中で大量のキメラが臓腑を吐いて死んでいた。呼気が震える。
(怖い。どうしてこんなにも)
ふと前を歩く八彩が足を止めた。青い光に照らされた巨大なシリンダーの前で背の高い男がたたずんでいた。豪奢な黒紫の絹の着物を見て戦慄する。
雪崩れる髪の隙間から切れ長の目が見えた。男がゆっくり傾いで冷たい笑顔を見せた。
「初めまして先輩」
壮麗な男は膝丈まで伸びた黒い髪を優雅に揺らし冷たい眼差しを向けた。微笑すら含まぬ眼光に宿るのは強き者の威厳か、それともキメラとしての恐ろしさか。
「翠宮の本尊の幻楊と申す。要するにあなたの後釜だ」
スッと伸ばした指先の美しさ。静かな所作にサクヤは恐怖を覚える。尊大な生き物に生まれて初めて出会った心地だった。
「こいつが本尊だと、キメラが何で生きてやがる」
ベルゲンのいう通りだ。宝珠が作動していれば目前のキメラはとうに死んでいるはず。だが彼はしっかり二本足で立っていた。ベルゲンの疑問を幻楊が笑う。初めて見せる生き物らしさだ。だが笑っているのにとても冷たかった。
「さて私がどうして死なないか。簡単だ、私には宝珠がないからだ」
頭を使えというように自らの頭をトントンと突く。
「ああ、だがみな死んでしまったので私一人であなたの相手をしなくてはならない」
不安を吐露しながら自信を見せる。とても風変わりな会話をするキメラだった。
「あなたはとても強いと聞くのでとても楽しみにしていた。もっとも私は戦うことがあまり好きでないが」
支離滅裂な言動に底知れぬ恐怖を覚える。サクヤの額を冷や汗が滑りおちた。これまで出会ったどのキメラよりも気持ち悪かった。
「待望の再会がこのような形で非常に心苦しいが。あなたは美しき瞳を拝めぬまま死ぬことになりそうだ。運命とは実に儚い」
そういって男が完全にふり返った瞬間、心が光に釘づけになった。組織液に満たされた長大なシリンダーの中で静かに目を閉じたままの姫がいる。黄金に波打つ髪を湛え美しい顔で静かに眠っている。シリンダーの中だけ時が静止しているかのようだった。
「美桜」
八彩が愛しげに呟いた。悲痛なもれには彼女への思いが含まれている。愛しくて大切な守りたかった人。水圧に遮られ聞こえないのだろう。意識があるのかさえも分からない。
八彩の呆然とした様子に幻楊がふふと含み笑いをした。
「彼女の主人であるならば彼女の目を知っているだろう。どんな色をしている」
目、と口ごもる。八彩は唐突な質問の意味を汲み取れない様子だった。
「どんな風に泣き、どんなふうに笑い、どんなふうに怒る」
幻楊は美桜に執心しているらしかった。八彩は不快な表情を見せる。
「怒った時の彼女の美しさを見て、庭に飾ろうか決めようと思っているのだ」
「庭に飾る?」
「冬の庭に美しい首が一つあれば、花がよりいっそう引き立つであろう」
その言葉が八彩の逆鱗に触れた。地の底から湧きおこるマグマのように怒り成体へと変化し、燃える紅い瞳で睥睨した。取り巻く空気がびりびりと震える。仲間は追随できず警戒して距離を取った。近くにいれば自分たちは邪魔になる。
幻楊は表情を消した。黒紫の打掛が烈風にはためき絹糸のような黒髪が縦横無尽に舞う。
「凄まじい覇気」
呟く言葉に恐れなど含まれていない。むしろ力量の差を推し量るように目の前の生き物を分析している。力の放出を見届けると自身もまた応じて指先を水平に伸ばした。目を細めて祈ると黒炎がポッとツメの先に灯る。
黒炎は静かにサアァと腕に広がり全身の皮膚を這う。頭、体、そして足先に到達してやがて体全周を包んで憎悪の気配を醸し出した。
「何だ、あの黒い炎は」
禍々しい気配にベルゲンは言を失した。人智を超えた現象だ。八彩の覇気と幻楊の黒炎が交わることなく反発し合う。ふと幻楊が笑った。
「あなたは強い。でも私には勝てない」
自信たっぷりの笑みに翠宮の本尊としての実力が見え隠れする。決して戯言とは思わなかった。あふれ出る力はサクヤですら感じる。
(彼、死ぬかもしれないわ)
ずっと抱えていた八彩への思いが胸中で膨れてゆく。戦わないで欲しい。今すぐ戦うのを止めてほしい。悲痛な願いをあざ笑うかのように幻楊の炎が燃え上がった。
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