第33話 傍観者たち
車イスの男は茫然とした。あの御姿を拝む日がくるとは夢にも思わなかった。
「八彩さま……」
懐かしい響きを以って言葉が蘇った。あの日、翠宮を堕ちたあの日から、一度たりとて忘れなかったキメラの名が鮮やかに蘇る。不死鳥のごとき炎で路傍の景色を染めてゆく。
紅葉が舞い散るあの景色なかで、美しい双眸が空を見ていた。こやつは何と雅に成長したであろう。帝が生きていたならばきっとそう見惚れる。この湧き立つような感銘にさえ立ち上がれない。足が不自由なことがこんなに恨めしく思ったことはなかった。
画面のなかの八彩は鮮やかに水塊を跳ね上げたかと思うと水面を渡るように走った。腕を振ると飛沫が上がる。彼は鮮烈なスピードのなかで戦っている。
「あんたの過去に何があったかは知らない。でも彼が戦っているのはあんたと同じ志じゃないのか、そうだろう」
(同じ志。すべては翠宮神社を打倒するため)
男は目を閉じた。脳裏にあらゆる苦痛が浮かんでくる。全身をいまだに走る拷問の記憶。震えるような神経の痛みがいまもなお彼を苦しめ続けている。そのとき。
「がんばれ」
小さな声がした。女児が小さな拳をにぎり締めている。周囲の大人たちは呆気にとられて何もいえず、ぎょっとして周囲を窺っている。空気が凍りつく。憲兵がいるのではないかと。傍にいた母親が慌てて口を塞ごうとしたが子はもう一度声を上げた。
「がんばれ」
幼き眼が一心にパネルに注がれている。今起きていることを懸命に捉えながらエールを送っている。火の粉が降りかからぬように生き、自分だけは幸せであろうとして、そのことに執心していたこと。彼女がこぼしたのは、ずっと人々が包み隠してきた気持ちだった。
「がんばれ」
懸命な声を聴いて人々の心に潮流が起こった。どんなに虐げられようともその言葉だけは折れずに口にしなくてはならなかったのだ。
「そうだ、がんばれ」
杖をついた老人が同調する。立つことさえやっとのはずなのに声はとても力強く生気を帯びている。老人の声を聞き、近くに二人並んだ内の一人の若者が誘われたように呟いた。
「がんばれ」
友人の突然の呟きに横を見た友人は視線を伺い、そしてアイコンタクトを取って頷いたあと、今度は二人ではっきりがんばれと声を揃えた。野に花が咲き乱れるように人々の間に言葉の花が開いていく。花は満開となり反響して空気を揺らした。
騒ぎを嗅ぎつけた憲兵達が駆け寄ってきた。警棒をふり上げ警笛を鳴らす。途端に静まり返り人々は口を噤む。処罰されるのが怖くてみな、目を伏せた。
「いいだしたのはどいつだ」
「始めにいった奴を逮捕する」
憲兵の言葉に何もいえず災難が立ち去るのを待っている。自分たちはいつもこうして強い者を恐れ、弱きに徹して生きてきた。でも、本当は逆らうことが必要ではないのか。運命を変えようと希うことが必要ではないのか。今この瞬間も戦っている若者のように。拳をにぎりると老人は手を口に当てがい叫んだ。よりいっそう大きな声で。
「がんばれ」
老人の決意は周囲の人々へのメッセージである。今が変わる時なのだと。さあ、みんなで変わろうと。
「貴様、いい加減にしないか。今していることは神道への完全な反逆であるぞ」
つめ寄ろうとした憲兵を無視して老人が再び声を上げる。
「何度でもいうぞ、がんばれ、がんばれ、がんばれ」
堪らず憲兵が老人目がけて警棒をふりおろした。老人は杖を落とし、しゃがみこむ。
「おい、お年寄りに何てことするんだ」
近くにいた屈強な男が数人で憲兵を取り押さえた。他の聴衆に助け起こされた老人は起き上がるとありがとうと礼をする。
「老い先短い人生だ。最後くらい正しいことを叫んで死にたい。それが今戦っている若者へせめてもの誠意ではないだろうか」
老人の言葉を周囲の者は心で受けとめる。権威に逆らうという極めて小さな一歩だけれど歴史を変え得るかもしれない大きな一歩だった。
「お前ら分かっているんだろうな」
取り押さえられた憲兵が威圧するようにいう。その声を押し退けてみな、懸命に声を上げ続ける。
「がんばれ、がんばれ、がんばれ、がんばれ」
やがて交差点に多くの人が集まり憲兵も取り押さえられぬほどの大きな熱の塊となった。熱気が騒ぎに走りよる憲兵をも押しのける。車イスの男は歓声のなかでたたずんだ。湧き立つ胸の情動にどうしようもなく駆り立てられる。
これはただの一戦ではない。国の命運をかけた天王山だ。方宮にきて以降ずっと反抗の機会を窺っていたが、今がその時なのかもしれぬ。
「助力といってはおこがましいが、できることなら我々にもある」
その言葉にスーツの男が頷いた。車イスの男は高らかに声を上げる。
「号令をかけよ。方宮神社へと向かう」
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