第32話 水上バトル

 仲間が排水に押し流されたという事実に目眩を覚えた。何かの冗談でないだろうか。


「驚いているようだからもう少し教えてあげる。侵入者はすべて押し流されて排水路にいない、今頃近くの八雲川で浮いているわ。どう、助けにいく?」


 瑪瑙があえて気持ちを煽るように聞いてくる。八彩は助けに行きたいのだろうかと、自身に問いかける。


「とてもいい作戦のような気がしたでしょうけど、残念だったわね」


 そういって瑪瑙はターンテーブルの椅子を勧めた。自身も傍らに座る。ターンテーブルには品のいい蘭の花が置かれ、シンプルな茶器とカップが揃えてある。瑪瑙はカップに濃い茶を注いで差し出した。八彩は言葉なく椅子に脱力した。


「飲んで。毒なんか入ってないわ。においで分かるでしょ」


 茶など飲んでいられる心境でなくて視線を落とす。頭の中が真っ白になってしまった。


「あなたとても強いのね。どのくらい強いのかしら」


 八彩はちらと視線を向ける。彼女の瞳には自信の色が浮かんでいる。


「匂いで察せるの。お互いにキメラだもの。そういうこともあるでしょ」


 香ばしい香りが鼻腔をくすぐった。拳を握る。あふれそうな怒りを瑪瑙が一笑に伏す。


「あなたさえ良ければ、プールで決着をつけましょう。あのおじさんの人質もちゃんと連れてくる。あなたに勝ってからあのおじさんを処刑することにするわ」


 ベルゲンのことを指しているのだろう。となるとベルゲンはまだ生きている。だが、他の捕縛された仲間は。


「他にも仲間を捕らえているはずだが」

「他の仲間? そんなのいたかしら」


 八彩は歯がみする。自身の考えが甘かった。相手が予測の上をいっている。これではベルゲン一人を救うために組織すべてを犠牲にしたことになる。


「あなたにとってはいい話だと思うの。相手をあたしだけに定めればいいのだから」

「なぜそんな提案をする」


 瑪瑙はターンテーブルの上の砂糖菓子に指を伸ばす。カリと噛むと唇を少しとがらせる仕草をして微笑んだ。


「簡単よ。自信があるの」


 キメラとしての本能が告げている。この女は強い。



       ◇



 処刑中継の始まる午後は奇妙な気配に満ちていた。日常の中の非日常。スクランブル交差点の信号を渡るのも忘れて人々は巨大パネルに釘づけになる。立ち止った人々の憐れみの目はすべて中継へと注がれて、繰り返される信号機の明滅だけが虚ろにみえた。


「来宮の連中か」


 車イスの白髪混じりの男が陰鬱な気持ちでこぼした。先日の処刑からまだ一週間も経っていないうちにまた一人殺される。スパンとしては短いような感覚があった。通行人もいつもなら気に留めないが今日は特別なのだろう。そういう妙な高揚感があった。


 スーツを着こんだ若い男が隣から尋ねてくる。


「いいのか」

「良いも何も。仕方がないだろう」


 慣れ合った会話に車イスの男は唇をかんだ。仕方ないと思っている、でも受け入れられるわけではない。男にはこの出来事を自身とは無関係と片付けられぬ事情があった。


「見てるだけ。オレたちはずっと見てるだけ。それはこれから先も変わらないのだろうな」

「何がいいたいんだ」


 スーツの男は口元をふかした。


「賢くやってるつもりだろう。オレもあんたも含めて。でも本当は賢くないかもしれない」


 巨漢がキメラに両脇を抱えられてパネルに映った。彼は特設された木柱に縛られて、絶海にたたずんでいる。頬肉の落ちた顔におびえの色はなかった。


「来宮のレジスタンスだっていうだろう」

「勇気あるよな」


 若い通行人の会話が耳をくすぐる。勇気、この者たちの決意は勇気という一言で片づけられてしまうのか。


「機が熟していないと。今はそれだけしかいえぬ」


 悔しく自制の言葉を吐いてパネルを見上げると、少女が薄衣で天女のように歩いてくる。瑪瑙だ。瑪瑙はプールの縁の中心点で立ちどまると画面のなかで声高らかに宣言した。


『お前を処刑する前に見世物を用意した。尊き仲間の死を目前で見届け、絶望に打ちひしがれながら死を迎えるがいい』


 そういい放つとプールへと飛びこんだ。彼女と対面してプールの縁に立っていた少年へ囚われの髭面の男が渾身の力で叫んだ。


『八彩!』


 車イスの男は言葉の在り得ぬ響きに一瞬耳を疑い、画面を凝視した。八彩と。たしかに聞こえた。名を呼ばれた少年は水中で踊り舞う少女を眼中に捉えながら成体変化する。その御姿、一度たりとて忘れたことはなかった。


「生きておられたのか」




 少女は横向きに鮮やかな風車のごとく舞いながら体を変態させていく。白魚のような両足がシャチの尾ヒレに変わり、薄衣が脱げて水底に沈む。水上に顔を出して女の艶めかしい半身をさらけ出すと不気味に割けたワニの口元でニタリと笑って挑戦的に叫んだ。


「こい!」


 八彩は助走をつけると勢いよくプールへと跳んだ。最初の一歩の右足が水に接面して、不安定に沈みそうになる。それを卓越した筋力で踏ん張り、水面を蹴ると次の一歩を構えた。二歩目の左足が再び沈みそうになる。再び筋力で持ち上げると次の一歩へ移る。


 段々と接水時間を短縮し、ほとんど水に触れるか触れないかの瀬戸際で足運びを繰りかえして、体を流線形に屈ませながら水上を加速していく。足の裏から伝わる水の心地に八彩は好感触を覚えた。


(イメージ通りだ、いける)


 瑪瑙の元へとそのままの速度で疾走する。蹴った水が背後で鉄砲水のように次々と跳ね上がり絨毯爆撃したかのような奇跡を描く。瑪瑙がほうと瞬く間に八彩が水面を強く蹴り、跳び上がった。太陽の光を遮りながら身をかがめ全身で飛びこむ。


 次の瞬間、拳を真っすぐふり下ろして水面を打った。大小の水塊が重力を無視したように跳ね上がり、ゆっくりと回転しながら宙を移動する。八彩は真下の水面を勢いよく蹴ると大きく跳躍してプールの対面へと着地した。跳ね上がった水塊はいっせいに落下して、ザブンと強大な音を奏で、一閃のあと水面は揺れながら元の形を取り戻した。八彩が拳をふり下ろしてからものの数秒の出来事だった。


「器用に戦うじゃない」

「お前のやり方に合わせてやってるんだ。感謝しろ」

「ほざけ」


 一撃を入れて分かったことは、プールはかなりの水深があるということと水上を常に走り続けていれば少なくとも溺れないということだった。だが、水上から飛んで攻撃をするのでモーションが大きくなる。これでは先読みされて攻撃がまったく当たらない。


 ツメでかいて、斬撃を飛ばすのはどうだろうと思索する。だが、相手は水中に逃げることもできるうえにコントロールを誤ればプール中央のベルゲンに当たる。ベルゲンがとにかく障害だ。八彩はふり返ると再び水上を走った。瑪瑙が声を上げる。


「そんな速度で走り続ける体力があるかしら。取っ組みあいになる前に消耗するんじゃなくて」


 八彩は水面を蹴りベルゲンの縛られた木柱に向けて跳んだ。木柱の上に着地すると尖ったツメで拘束している縄を解いた。


「すまない八彩」


 声をかけてくるベルゲンに、邪魔だ、といい放つ。ベルゲンは縄から解放されて水中へ落下する。そして身をよじり水上へ顔を出すと速やかにプールの端まで泳ぎ始めた。


「人質を解放するのは約束が違う」


 八彩は叫ぶ瑪瑙に木柱の上で反論する。


「戦いの邪魔になるから開放したまでだ。安心しろ、逃げやしない。殺したければオレを殺したあとにアイツも殺せばいい」


 瑪瑙は苛立ち混じりに剛力で木柱を水中から丸ごと引きあげると、八彩ごと持ちあげた。八メートルほどの丸太の全形が露わになる。八彩は丸太から飛びのくとプールの縁へ着地した。瑪瑙は丸太をまるで小枝のように扱うと、頭上でプロペラのように回転させ始めた。空を切る轟音がする。勢いそのままに、プールサイドへたどり着いたベルゲンに向けて投げつけた。即座にカバーリングしようと動き出したが間に合わなかった。


 幸い丸太は寸でのところで水中を荒く叩きその後、ぷかりと水上へ浮かんだ。ベルゲンは難を逃れ息を吐くと身を裂く寒さに凍えながらプールサイドへと上がった。唇に紫色を浮かべながら震える。瑪瑙は舌打ちすると般若のような面構えでしゃがれた声で叫ぶ。


「お前間違っても邪魔をするなよ、しっかり仲間の死にゆくさまを眺めていろ」

「ああ、分かっている。邪魔はしない」


 あくまで二人の決戦だ。瑪瑙の命でこの場に氏子はいない。瑪瑙と八彩とベルゲンの三人だけ。サシで戦うというのはむしろ八彩も望んでいたことで、不利な水上決戦の最中に憲兵を相手する余裕はない。それを分かってか分からないでか相手は不敵に笑う。


「水中戦となればお前の泳力ではあたしに勝てないだろう。水に沈んだ瞬間お前は墓場行きだ。さあこい。ワニのあごで引きちぎってやる」

「威勢と覚悟だけは立派だな」


 八彩の頭中には拳で水を吹き上がらせた瞬間に水中から引きずりだして空中決戦するという策があった。だが、初撃で水底に達しなかったことを考えると拳ですべての水を舞いあがらせることは不可能だ。捨て身の覚悟で懐へ飛びこみ腕力で体を引き出すというのはどうだろう。その瞬間仲間の言葉が過る。


(もう少し防御を覚えたらどうだ)


 歯噛みする。捨て身の作戦はなしだ。戦うたびに命を懸けていたらいくら命があっても足りない。プールに視線を落とすと水底で何かが光った。ふと閃く。


 空中決戦はなしだと心で決めると勢いをつけて再び跳んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る