第30話 互いの策謀
ベルゲンは囚われながら一つの夢を見ていた。シャノンが自宅に数本のタンポポを摘んで帰ってきた。黙ってタンポポを差し出す。言葉は話せないようだが唇が小さく「あげる」と動いている。妻が手作りした水色のワンピースを着ていた。
体を抱え上げると愛らしく笑う。ベルゲンも顔がつられて笑顔になった。シャノンを降ろすと知らないうちに妻と息子がシャノンの両脇に立っていた。彼らの背後にはタンポポの野原がある。ずっと感じていなかった忘却しそうになるほど懐かしい幸せだった。愛する家族に囲まれて送りたかった日々を思う。戦う決意が折れそうになるほど心が和らいだ。
「さあ、あなた行きましょう」
言葉が夢に溶けて何度も木霊する。三人の体がそっとベルゲンの体を包みこみ、温かな感触をまといながらまどろむ。その温もりのなかで次第に目が覚めた。
「おい起きろ」
冷水が呆けた頭の熱を奪った。冷えた現実が押し寄せて幸せから覚める。すでに幸せの姿はなく、袴姿の憲兵が冷たく見下ろしていた。
「食事だ」
差しだされたパンは三日ぶりの食事だった。乾いたパンが口内の水分をすべて剥ぎ取り、飲みこむと胃がきゅうっと痛くなる。すべての内臓が胎動してたった一つのパンの養分を奪い合った。乾きが激しく、慌ててコップ一杯の水を飲むと唇が震えた。少ない液体が胃へと沈みこみゆっくり巡っていく。波立つ鼓動を感じながら心で深く感嘆する。
(ああ、オレは生きている)
伸びざらした髭と不潔な体でもなお、生かされ続けている哀れな自分を省みる。一人残った恥辱を感じてだくだくと涙があふれた。憲兵はベルゲンの汚れた髪をつかむと笑った。
「まるで野良犬のようだ。哀れであるな」
「オレに人質としての価値はない」
「それを決めるのはお前ではない」
苛立ちの声を上げて、ベルゲンの頭を壁へ打ちつけた。
「ぐっ」
「お前の処刑が決まった。五日後だ。それまで独居房を楽しめ」
憲兵は乱暴に髪を引き抜くと笑いながら去っていった。ここは元々独居房ではなかった。だが、たくさんいた仲間たちはもういない。ベルゲンを残し一人残らず処刑された。
大切な仲間を失うのは身を裂く辛さだった。通路の奥から聞こえくる叫びは心を蝕む。最後に仲間が連れ去られ三日経つ。仲間がくるだろうか、じっと鉄格子の上端を見つめた。
ベルゲンは助けがくることを一番恐れていた。助けにきたところで自身しか残っていないのでは顔向けできぬ。自分一人を救うことと組織の存続は天秤に賭けていい話でないからだ。この場で舌を噛みきり自害できる。だが、それをしないのは自身があえて公共の場で殺されることで何かを訴えることができるのではないかと考えたからだ。
多くの人々は哀れな男の死に恐れ慄くだろう。だが、ほんのひとにぎりの人間の中に不僥不屈の種を蒔くことができる。種は発芽してやがて大樹となる。その大樹が育ちきった時、人は神社という悪政の支配から解放される。
自身の死がそうした一連のほんの一部でしかないことを自覚してもなお、何かを残したいという心が湧いてくる。希望は捨てず、死を覚悟してなお戦い続ける。
「方宮よ、オレを華々しく処刑するがいい」
呪うように呟くと静かに目を閉じた。
◇
「ああ、お髭は剃ってちょうだい。それから私のプールに入るからには清潔にして」
瑪瑙は独居房の中をうろうろする。ベルゲンがそれをじっと見ていた。本尊であるからどのような荒くれ者と思ったが、予想以上に蟲惑的な少女である。キメラとはなんの冗談か。歩みを止めると視線をすっと下ろした。
「でもあなた不細工ね、ぜんぜん美しくないわ」
神経を逆立てて、忌避の感情を露わにし、ベルゲンの顔を覗きこむと鼻をつまんだ。
「早速洗って」
瑪瑙の言葉によりベルゲンが両脇を抱えられ、独居房の外へと連れ去られる。自力で立つ力はすでに無く、引きずられるようにして外へと向かった。
「さてと、それでは話を聞きましょうか」
瑪瑙はフーッと息を吐くと腰に手を当てて首を傾げた。寝殿に場所を移すと神主が白塗りの壁にプロジェクターの光を当てて説明を始めた。
「レジスタンスがこちらのネットワークにアクセスしていることは確認済みです」
告げる神主の言葉に瑪瑙は、それでと反応した。問題はその先だといっているのだ。
「彼らは恐らく地下からくるでしょう」
「地下?」
「地下の設計図へのアクセスが複数回確認されています。恐らく排水路から侵入してプールを破壊し、水を抜く計画ではないかと思われます」
「ちょっと冗談はよしてよ。排水路の警備を増大させてしっかり守って頂戴」
「いえ、それには及びません。連中が排水路を通るのであればあえてそれを利用いたしましょう」
神主は作戦の詳細を説明した。瑪瑙はその説明を黙って聞いた。流れには一切口を挟まず、すべてを聞く。瑪瑙はきまぐれで気分屋という面があるが一方で優秀な部下の進言は必ず聞くというしたたかさを持っている。キメラであるのに利口、その一言に尽きた。
「以上の手はずで作戦を進めたく思っています」
「そうね、大胆でいいと思うわ。少々派手好みだけれど嫌いじゃない。その方向で進めて」
神主が話を終えてうやうやしく頭を下げると、瑪瑙は、御苦労さまと労って神主を下がらせた。瑪瑙は猫足のソファに横になり、頭中で神主の作戦を反芻しながら癖でツメを噛んだ。考え事をするときの癖だ。カリッと口の中で欠ける感触がある。牡丹の花を基調とした水色のネイルが欠けていた。瑪瑙は苛立たしげに傍仕えを呼んだ。部屋の外に控えていた傍仕えが即座に部屋に入って礼をする。
「ネイルが剥がれたの。今すぐ変えて頂戴」
気に入りだったのに。要望に応じて準備を始める傍仕えの慌ただしさを感じながら、瑪瑙はプロジェクターを見つめると欠けたネイルの背でそっと薄ピンクの唇をなでた。
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