第24話 翠宮の氾濫
季節は移ろい梅雨の本降りのなか、翠宮帝は居室で乱れたように酒を浴びていた。血濡れた抜き身の刀を片手に徳利できつい酒を体に流しこむ。
「ないぞ、代わりを持ってこぬか!」
本殿におわすは帝ただ一人。もはや近よるものもいなかった。きっかけは先日の先代の翠宮帝の法要であったが、誰もいない空間に猛ったかと思うと刀を振って暴れ出したのだ。
「己がそんなに何故偉い、わたしを愚弄するのか!」
死んだはずの人間の幻を見て錯乱し、恫喝しながら三人の氏子を切り殺した。帝はその出来事を皮切りに正気を保てなくなり、干していたはずの酒に再び手を出して酩酊状態に陥ると酒のつまみを挟むように氏子を切った。
配下の者は本殿から遠のき、帝抜きの政治運営を行うようになった。元々、いてもいなくても支障なかったが、いるのを無視するのといないのとでは遠慮のしどころが違う。
業平の画策は日ごとに膨らんで無垢なるキメラを育てるという願望も、自身が政治の深部に居座るという構想もすべてが真に近づきつつあるような感覚があった。
蛙の鳴き声が庭を包む。雨が奥の池で蓮の花を打っていた。その日は雨垂れが特にひどく、紙が湿気ると業平がこぼした。翠宮の上空には雷をともなう雨雲がかかっていた。
八彩はこの頃、例大祭などに本尊として参加する形ばかりの天威を務めることが多かった。帝不在の式典は示し合わせたように進み、これで良いのだなと自然と思えた。その日も催しごとの打ち合わせだった。取り立てて準備もないのだけれど神社は体裁を気にする。
「お前の案に乗ってもいい」
脈絡のない言葉だったが、業平は真意を受け止めた様子だった。目の色が静かに変わる。
「本当ですか」
「ただし、条件がある」
「条件?」
「美桜を放してやってほしい」
えっ、と呟いたきり何もいえない様子だった。
「どこでもいい、好きな花の咲いている神社でもいいだろう。お前が作った平穏な国のどこか傍らで、本尊として穏やかな一生を過ごさせてやってほしい」
「あなたさまはいかれないのですか」
業平が一塊の寂しさの残る声で問いかけた。
「どう運ぶかも分からないだろう」
帝を処分したものが生かされておくなど高望みでしかない。その懸念がようやく伝わったのだろうか、業平はしばらく言葉もない様子で押し黙っていたが。
「愛していらっしゃるのですね」
八彩はその言葉に応えなかった。
「早急に計画をまとめて知らせろ。人一人狩るなど造作もない」
◇
赤く染まり消える空を静かに眺め嘆息した。今日は神経が苛立つ。
「庭には出られませんね」
美桜が隣で残念そうにこぼした。
「業平の策に乗ることにした」
振り仰ぐと波打つ黄金の髪がさらりと雪崩れた。目を見開き、顔を見つめたあと悲しそうにする。望んでいたことだろうに。
「良いのですか」
鈴の音色に心を鷲掴みされたような心地になった。ああ、彼女の言葉は。八彩はすっと顔を横に流すと、真っ直ぐに美桜を見つめた。
「……正直に答えて欲しい」
空が光りまた消える。美桜の喉が瞬刻、血のように赤く染まった。ふわりと抱きしめその細首に顔を埋める。
「オレを好きか」
薄い背中から震えが伝わったような気がした。一拍の沈黙があって、決意するように目を静かに閉じる。
(やはり違うのか)
彼女のなかにたぶん、望み以上の思いはない。誰にも愛情を向けられる分、格段の思いはないのだろう。だからこそ自身は魅かれていた。顔を離すと鼻筋を重ねて見つめ合う。これほどに想いが近かったことはない。口を小さく動かし想いを伝える。
「翠宮を出て余生を送れ」
美桜の瞳が潤み一筋の涙がこぼれた。あの婚礼の夜と同じ涙だった。そして、抱きしめ返される。思いがけない花の香りに包まれて瞠目した。
「わたしは逃げません、お慕いしてます」
八彩は目をすがめて静かに返事した。
「業平と話す」
「……誠か」
最上氏が凍り切った面持ちで「はい」と返事をした。帝は酒を煽りながら手ににぎった刀を肩で遊ばせている。
「業平にそのような策謀があると」
「間違いございません」
最上氏は日頃から業平の振るまいにいささか懐疑的で、その行動を問題視していた。
「予を殺して、自身が帝の座に就こうとしているなどという戯言を信じろと申すか」
「八彩さまに取り入ってその計画を進めていると伝え聞いております」
信じられぬという面持ちの帝に、最上氏は言葉を鮮明にする。
「帝を弑すると」
猪口が止まる。手元が震えて酒がすべてこぼれた。震えは大きく鳴り、全身をガタガタとゆらす。恐怖しているのではない、烈火のごとく激しているのだ。帝は抑えきれぬ感情を渦巻かせて、刀を抜き最上氏へとふりおとした。つんざく叫びは雨の翠宮へと消える。帝は激情のまま立ち上がると声高く叫んだ。
「業平はどこにおる!」
曇天から降りしきる雨は勢いを増した。豪打する雨が人々の叫びを隠す。裸足のまま必死の形相で庭に逃げる人々、ふすま越しに切りすてられた者。氏子と巫女が真っ赤に染まった廊下に幾重にも重なり倒れ伏している。
「業平はどこである、返事をせぬか」
「おやめ下さい! この先は八彩さまの居室です」
立ち塞がる巫女に刀を浴びせた、また廊下に血の花が咲く。真っ白な障子をたんと開け放ち帝は冷笑した。美桜だ。血濡れた刀に気づいたが動揺の色は見せない。
「お加減が悪いのですか」
「業平と懇意にしているのか」
「いえ」
「業平と懇意にしているのかと聞いている」
「しておりません。ワタシは」
「ウソおおおおをつくな!」
瞬間、一閃が振り下ろされた。
八彩と業平は騒ぎを知り居室に駆けつけた。目に飛びこんできた物を見て絶句する。一振りの刀が美桜の胸を貫いていた。いえない感情が押し寄せて目頭が熱くなる。美桜はうずくまり口から吐血していた。
嘲笑が聞こえた。帝が部屋の角で酒を飲んでいる。祭壇に供えていた神酒であった。
「安心せよ、八彩。売女は始末した」
「何をなさっておいでですか!」
業平が蒼白になり声を上げた。見た途端、帝の激情が飛ぶ。
「なああありひらああああああ」
地の底から感情が迸って帝は立ち上がる。酔った勢いでこけて這いつくばり刀へ歩みよる。帝が浮浪の手を伸ばして柄を握り締めた瞬間、業平の顔に赤が散った。八彩がツメで帝の腹を貫いていた。
「うああああああああ」
八彩は千切れそうに叫んだ。叫びが耳に木霊して気が振れそうになるほどの激情が渦巻く。倒れた帝を組み敷くと何度も殴りつけた。息を切らし、興奮して怒りが抑えられない。帝はごぼごぼと酒の混じった血を吐き続け、時が静止するまで繰り返した。
大きな雷が落ちて地鳴りがした。その轟きに我を取り戻す。目を下ろすと帝が忘我のなかで死んでいた。業平が何もいえず八彩の血に濡れた手を包んだ。痛み入ると項垂れた。
「あちらである!」
声が聞こえた。最上氏である、鋭く尖っていた。皮膚が粟立った。
「くそっ」
業平が苦渋を露わにした。はめられたのだ、帝の殺害が知れれば即時に捕らえられる。
「八彩さま……」
「無事か、美桜」
「お逃げください」
儚き声に言葉を失う。薄地白い手を握った。美桜を追いて去るなどできようはずもない。
「人が集まります」
業平の言葉に耳をそばだてる。足音が廊下を進んでくる。死ぬよりマシだと八彩は着物の袂を押し広げ、胸に切りこみを入れて宝珠を取り出した。かなりの傷みを伴い顔が歪む。
差しこむ指が震え、でも取りさらねば生きてなどいられない。繊維ごと引き千切ると心筋が膨張して破裂しそうなほど苦しくなった。美桜の腹の刀を抜くと彼女の宝珠も取り出した。取り出した二つの宝珠はその場に打ち捨てて美桜を抱えると業平と社を駆けた。
本殿を抜けて渡り廊下を走る。向かってくる氏子の戸惑いをふり切きり、社の東端に到達すると雨に打たれた。吹き荒ぶなか美桜が八彩の袂を苦しそうににぎり締める。手に触れて「大丈夫だ」と声をかけた。跳ねあげた泥が着物の裾を汚し、呼吸をするのも忘れるほど無我夢中の逃走だった。頭中には何とか逃がさねばという思いだけがあった。
境内の東端にたどり着き回廊の屋根に飛び乗ってそこで絶句した。回廊の向こうは断崖絶壁だった。見下ろすと遥か遠くに在るはずの地上が見えない。翠宮は高地にあると知識にはあった、だがその実は山岳の古城だった。
八彩は唇を噛んだ、自身には翼がある。飛んで逃げればいい。だが、それは一人であればの話。手負いの美桜を抱えて飛ぶなど不可能だった。決意が惑う。
「置いていってください」
業平が必死の声をかけた。悲しい瞳がぶつかり合う。彼も嘆いている。だが、どうして最愛の人を置いて行くなどできようか。抱く手に力が籠る。
「今のまま連れて逃げられたとしても美桜さまは助かりません。ここの医療で助けて見せます。だから」
美桜は八彩の緩んだ袂を苦しげににぎり締めそっと呟く。
「八彩さま、置いていってください」
「愛してくださいといっただろう」
やり場のない悲しみだった。美桜がその悲しみを理解して花のように微笑む。
「生きねばなりません」
非情の雨が二人を打つ心が張り裂けそうな思いだった。足音が近づく。
「八彩さま、急いでください」
八彩は手放したくない思いをふり切り、そっと美桜の体を業平に預ける。
「頼む」
八彩はタカの羽を広げて嘆きとともに黒い雨が降る闇夜へと飛び立った。
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