第22話 月食
八彩は美桜との関係も進展せぬまま本尊としての務めを粛々とこなした。時折、関係を詰めるような局面もあったが柔らかにただ優しく記憶は紡がれてゆく。会話こそ弾むわけではなかったが彼女の量った距離を心地よいという風に感じていた。
「おい、業平」
初夏の式典の段取りを済ませて氏子とともに去ろうとする業平を呼び止めた。神主である業平は、帝に次ぐ地位にある。だが断れぬ性分から数多の氏子に慕われて雑務に忙しくするところであった。八彩はその業平を呼びとめて話がしたいといったのだ。
業平は足を止めて先に行っていてほしいと部下に告げると八彩の居室に残った。凝縮された空気に息を詰めた。こんなに緊張した席もしばらくなかったと思う。八彩はゆっくりとにぎった拳を差し出すと懐紙に包まれたそれを転ばせた。業平は目を見開く。
「それはなんでしょう」
懐疑の思いで小さな塊を手に取った。若葉を象った落雁、先日の茶席のものだ。
「美桜が帝に差し出したものだが毒だ。臭いがする。調べろ」
これが臭い。何も臭わない、に少々信じられぬ思いではあったが。
「ひょっとすると美桜さまが……」
「その可能性も捨てきれんが。良く分からない」
何者かの悪意を疑っているのか、美桜本人が知っていて差し出したとは思いにくいが。
「……捨て置けばよかったのではありませんか」
それをいって少し後悔した。帝への反意を明らかにしたのはこれが初めてである。それをどういう気持ちで止めたのか、八彩はこちらの心を読んだように嘆息した。
「死んでもいいが、死ななくてもいい。その程度の男だ」
言葉以上の含みはないのだろう。後腐れもないように聞こえた。頼まれたごとなど稀にしか受けないが、慕う彼の頼みだ。
「分かるかどうか、少しお時間を頂きます」
業平は懐紙に落雁を仕舞うと、静かに頭を下げて主の居室を去った。
業平は居室で脚を組んで落雁を見つめていた。たった一粒。たった一粒だが。
「止めたか」
そう独りごちて手を力なく下ろした。常日頃からの己の言動に滲んでいたのかもしれぬ。八彩はたぶんそれを分かっている。が、それを理解して止めた。それから悟れることは一つ。帝に対する嫌忌も好意もないのだろう。
死んでもいいが、死ななくてもいいとはそういうことか。落胆の気持ちもあった。ただ、二度とするな、と言外に含まれていた。だから、帝には伝えずに業平に突き返した。
何の配慮だ。ただその配慮に身を救われたようでもあった。己の罪が明らかになれば生きてはいられまい。
「それでもよいが、な」
帝と世情の板挟みになって引き千切れそうだった。心を惑わすのは先日の処断、南都清宮での生き餌の大量補充の件だった。反論すると帝は烈火のごとく怒り、業平にひと月の暇をいいつけた。だが、ひと月も経たぬうちに忘れたように復職せよといいつけられて、その後の腹心の部下の急な処分である。
理解し合えた者も多く逝去し、それでも残されるという理不尽のなかでの出来心であったが冷静になったときには茶会が終わっていた。己にできることはこんなことだったのか、違うだろう。もっと大きな望みを持って理想を掲げて入信したはずなのに。限られた権威のなかでしか動けぬ苦しさを思った。多くの困難が立ちふさがる。
「辛いな」
辛酸をなめた気持ちになって窓の外を見ると、美桜が桜と戯れていた。
◇
八彩がふいに庭に目を這わせた先に美桜が映りこんだ。東屋へと渡る小橋の上で下を流れる小川に身を乗り出している。泳ぐ鯉を見ているようだ。手元には庭で摘んだ山百合がある。恐らくあとで生けるつもりなのだろう。
翠宮神社は元来神の山と信仰された神代山の中腹に建立された神社で庭にはその名残の自生した植物が咲く。春の山桜、夏の山百合。手入れされた花ほどの美貌は無いけれど、八彩はそうした植物を好んでいた。
「とても花が良く咲いていました。一度お出になられてはいかがですか」
小気味良くハサミを動かす音がする。気持ちが研ぎ澄まされる。美桜の居室は別にあるのだが、こうして八彩の居室にやってきて花を生けていく。
「あまり上手ではないのですけど」
生けた花器が遠慮がちに床の間へと飾られた。部屋に季節の香りがもたらされる。
「ワタシはこれで」
「……待て」
八彩は去ろうと伏せた美桜に言葉をかけた。婚礼の夜以降のまともな会話だった。美桜が頭をあげる。あどけない顔をしていた。
「ゾウは鼻が利くそうだな」
「えっ」
「分かっていたのだろう」
美桜は急な問いかけに黙りこんだ。だが、意図は伝わったろう。先日の業平の謀りごとの件を問いかけたのだ。
「鼻が利くお前が毒に気づかなかったはずはない」
八彩が吐息するのを聞いて美桜は居住まいを正した。
「帝が弑されれば宮の景色は変わりましょう。ですが、それでも良いと思いました」
八彩は良く分からない気持ちになって美桜を見た。碧緑の瞳を潤ませていた。
「この世には悲しいことが多すぎます。同志討ちをして命を散らしてゆくキメラの無残なこと、つまらない罪に生き餌となる命。そうしたものを八彩さまはワタシ以上に見てきたはずです」
赤い景色が鮮明になり、日々が凄惨な記憶として心に蘇った。
「あの暮らしほど辛いものはありませんでした。散りゆく命をシリンダー越しに見つめながら心を殺して生きてゆく日々。ワタシはキメラです。そのような感情を持つことは異端であるかもしれません。人のようであると笑われても仕方ありません。ですが」
美桜は瞳をわずかに細めて憂えた。
「もう、無残に裂かれる命を見たくはないのです」
「帝が立ち替わろうとも、世の風潮は変わらない」
「そうでしょうか。願う者の望みがかなえば……」
「業平か」
「いえ」
美桜はそういった切り言葉を噤んでしまった。やはり懇意にしているのだろう。彼女の心情が良く分からなかった。何かの決意に触れた気がするがそれ以上は推し量れなかった。慈悲に尽きる。首を振るうと告げた。
「もういい、さがれ」
「申し訳ございませんでした」
枝垂れて去っていく花の後ろ姿を見つめ、思考を巡らせた。
(彼女は聡過ぎる、ただの姫ではないのか)
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