第19話 雅の舞台

 秋がきて八彩は八歳になった。幼さの残るまま翠宮の本尊香月こうげつとの対決に臨んだ。翠宮が誇る美庭の中央にすえられた雅の舞台で背高い香月と小さな八彩が対峙する。年齢差十七歳の勝負に、所長はまだ気が早いと直訴したけれど帝が異論を認めなかった。このところ翠宮では心躍る出来事がなく、この対決は雅な生活に飽きた氏子たちの退屈しのぎという意味合いが強かった。


——この試合に勝利した者を翠宮の本尊とする。


 氏子たちはこの触れを心躍らせ楽しみにしていた。酒を煽りながら、本殿の廊下に特設された物見台で高みの見物をする。出過ぎぬように、かといって控え過ぎぬように。みな帝に面通しを許された有力の氏子たちだった。


「香月様はいつ見ても端麗でありますな。抜けるような白さがある」


 白いオオカミ、白いライオン、白いトラ、白いヒョウ。香月は二十五歳になる純白のキメラであった。


「それに比べ八彩の平凡なること」


 氏子がおべっかを使いながら、扇で口元を隠し、ふふと笑う。


「香月よ、美しく殺せ」


 ふりあげる帝の猪口から酒が盛大にこぼれた。この頃、帝の心は八彩から離れ計画は失敗したとの見解が広まり、水面下では次なるキメラを開発するプロジェクトが動きはじめていた。より強いキメラをと望んで生まれてきたのは期待外れのキメラであったということだ。この風潮で彼の成長を喜ぶ者は皆無、それでも研究者たちには一束の思いがあった。


「惜しいですね。八彩の成長を見られないのは」

「連れ帰りたい衝動に駆られるのは私だけではないのだな」


 所長が研究員の言葉に反応した。


「このプロジェクトには億という金がかかっているのですよ。人々の期待も研究の未来も」

「現場で働く者にしかそれは感じとれないな」


 この決戦もただの遊興でしかない。一番残忍なのは人だな、と歯がみした。日を待てば、八彩は立派な成鳥になるだろうに。


「すべてが終わったときに惜しい、とは思いたくないですね」


 それが八彩計画を推してきた者たちのすがるような想いだった。


 秋風に白い絹糸のような長髪が揺れた。美しさに似合わぬ冷えた声が舞台に落ちた。


「そなたのことを憎んでいる訳ではないが、愚帝の望みとあらば叶えぬ訳にもいくまい」


 八彩が澄んだ目で端麗な香月を見つめた。深紅の瞳には戸惑いの色も焦りの色もない。


「この試合に勝たれた方を翠宮の本尊として新たに迎えます。相手が敗北を認めるまでの決戦といたします」


 審判の氏子が手を間に差しはさんだ。


「まだ神の地位を譲るわけにはいかん」


 香月の鋭い言葉に合わせて開始の太鼓が鳴った。香月の長い指が心臓を突く勢いで八彩の胸に迫る。それを八彩は翼を羽ばたかせ後ろに飛んで回避した。


「そなたは獲物を殺さぬそうだな」


 八彩はふりかぶるツメを静かにかわしていく。


「ワタシは施設で五頭の獅子を殺した。八頭の虎狼を殺した。三十二頭のキメラを殺した。奪った命の分だけキメラは強くなる。強さを磨く。残忍になる。そなたは何匹殺した、何人殺した」


 八彩の足が舞台の端を踏む。後ろへ引くと羽ばたいて宙から香月を静かに見おろした。


「言葉を話せぬのか。それとも理解できぬほど幼いか」


 香月が空に向けて振るったツメが風撃を起こす。切り裂くような烈風が迫った。八彩は身を固くしてそれを受けとめる。顔への直撃は避けられたが腕や手足にいくつもの裂傷を作り、それでも苦痛一つ浮かべずに自らの羽をスッと引き抜いた。


 三枚の羽を神速で放つ。香月はそれを跳んでかわし、羽は雅の舞台へと突き刺さる。八彩は地へ降り立つと風雅に舞った。蹴り出される足の初速と突き出す拳の威力は申し分ない。香月は思わず「ほう」と嘆息した。


「これほどの力がありながら何故振るわない。なぜ獲物を狩らないのだ」

「それでどれほどの心が満たされる、空虚と思えないのか」

「ワタシの中には残虐の遺伝子が組みこまれている。勿論そなたにもだ。拳を打ち合わせているうちにそれを感じぬか。心がどうしようも無く弾まぬか」

「オレは兵器ではない」

「ワタシたちは兵器なのだよ」


 香月の蹴りが八彩を捕らえて舞台の外へと吹き飛んだ。小さな体が小川に浸り背を濡らす。顔をあげると香月が虎狼に変身して迫っていた。


「おお、なんと美しきお姿」


 どよめきが起きる。研究施設の者にとっては生体変化は特段のことでないが、氏子にとっては正しく心躍るものであった。


「八彩は完全な成体変化がまだできません、不利ですよ」


 体格の差然り、現有の能力の差然り。それでも八彩にはそれを跳ねのける地力があった。


「我々の研究は日々進歩しているんだ。八彩はそのことを証明してくれる」

「ですが」

「見ておけ、雛が羽ばたく瞬間を」


 組み敷き牙をふりあげた香月に八彩は怒りを込めて獣の瞳をぶつけた。


傀儡かいらいに意味などない、あんたのそれは傲慢だ」

「人間らしいことをいう、実に不快だ」


 香月は牙をふり下ろすと八彩の細首をもいだ。


「くっ、がああ」

「キメラの強さは遺伝子で決まると知っているか。お前はどうにも人の遺伝子が濃すぎるようだ。そのような者に神の重責は担えまい」

「要らぬといったろう!」

「ならばこの場で死ね」


 瞬刻、八彩の秘めたる力が眩い輝きを放ち始めた。伸ばした手に黒い獣の毛が生えてツメが鋭く伸び、体色が黄みを帯びて縞模様が走った。その場にいた者たちが伝説の獣の殺意の芽生えを固唾を飲んで見守る。


 虎狼が下から繰りだされた剛力に宙を舞った。体が派手に打ちあがりそのまま決戦の舞台へと叩きつけられた。空気が一瞬にして反転した。


「何と……気品漂うキメラであろう」


 帝が酒を煽るのも忘れて猪口を赤い毛氈に落とした。小さなキメラが八種の彩をまとってゆるりと立ち上がる。美しい瞳には畏怖するほどの覇気がみなぎっている。八彩は小川を蹴ると舞台へと戻り香月に勢いよく迫った。


「雑子が」


 香月は内臓から溢れた血を吐き捨てると八彩へと向き直った。


「貴様は殺したことがないのだろう。獣も、キメラも、人さえも」

「オレにできないと思うか」


 八彩の言葉に香月は眉を歪ませる。小さな拳に未熟と思えぬほどの力を宿している。


「うぐっ」


 拳の一撃が重く体の芯を揺さぶり、香月の戦況が打ちあわせるたびに不利になってゆく。防御しきれなかったダメージが体力を削り、渾身の一撃が腹へと突き刺さる。香月は崩れ落ちた。八彩はくずおれた香月の髪をつかむとその美貌の面輪に向かって冷たくいい放つ。


「オレに本当にできないと思うか?」


 深紅の眼差しの奥に秘めた狂気を見て、香月は表情を凍らせた。香月は今、生まれて初めて恐怖している。


「お、お前にできるはずがないだろう。お前は……」


 震えながら言葉を絞り出した香月の上あごと下あごを握ると時が止まった。八彩は渾身の力でそのまま引き裂く。頭骨の割ける凄惨な音のあと、純白の虎狼は血に染まり肉塊となった。雅の舞台が血に染まる。


 氏子たちは凄惨な光景に言を失した。勝負は瞬時にして終わった。終わったが誰も想像しなかった結末であった。観衆があっけにとられるなか、帝の嘲笑が静寂を切り裂いた。


「褒美だ、香月を喰え」


 敗北した者への寸分の情も持ち合わせていないのか。誰もが不快感を抱き、異常なまでの気の触れようにおびえた。浴びるほど飲んだ酒がそうさせるのか、もしくは尊すぎる帝の地位がそうさせるのか。八彩の顔が微かに歪む。人々は静まり声一つ出せぬまま。秋が盛りの庭に帝の満足げな高笑いだけが響いた。八彩はこうしてその日より翠宮の本尊となった。



       ◇



 朱に彩られた舞台で即位式が行われた。先日まで香月が被っていた冠を八彩が引き継ぐ。転びそうになるほどの錦の着物を引きずり八彩は静かに舞台へあがる。心は重く、沈みそうになるほど悲しみは深く。タカは自由への憧れを押しこめて、翠宮に捕らわれる神となった。八彩は冠を頂くと顔をあげる。眼下に広がる人々の醜い笑顔には不快の言葉しかなかった。みな、他を虐げ生きてきた残忍な者たちだ。誰が八彩の孤独を理解しただろう。


 人は浅ましい。自分より劣るものを見つけて愉悦に浸る。自分より不幸なものを見つけて安心する。舞い散る紅葉はもう少ない。翠宮にもじきに凍る冬がくる。八彩は雅の宮で孤独を抱きしめるようにそっと瞳を閉じた。

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