第17話 無垢の幼子
業平は翠宮の架橋を渡りながら一つの決意を抱いていた。悪しき帝を退位させなければならぬ。昼夜問わず酒に溺れ、まともな執政一つこなせぬ命を軽んじる愚弄者。政治など俗事でしかないのだろう。心は擦り切れるように傷んですでに限界に達していた。
雅の翠宮にも心はときめかず、人々の困窮の上に成り立つ浅ましき栄華を見て抱くのは疑問ばかり。まとう着物がいったいどれほど高価か、一着見繕うためにどれほどの血税があがなわれているか。帝の命である以上自身もまたキメラの犠牲にならねばならぬ。
だが。キメラ研究所の門戸をくぐり、誕生したばかりの幼い命を見つめ愛しい気持ちになる。無垢な心に狂気を植えつけるなど人の沙汰ではない。ガラスのシリンダーの中で座りあくびを浮かべるのはただの幼子だ。
「八彩はどうだ」
白袴姿の研究員が業平の問いかけに頷く。
「能力は計り知れませんが今の所、平凡である。と」
「平凡……」
思わず苦笑してしまう。期待された神がこのような腑抜けで帝に報告ができようか。八彩が身じろぎして翼を広げる。
「今の所タカの翼の出現だけは認められますが、成体変化のコントロールもまったくできないようで良くいえば能力は未知数です」
成体変化とはキメラの能力開放を指す。人種キメラは平時ヒトまったく見目が変わらないが、生体変化した時、異形となってその力を振るう。成長とともにそうしたことが器用になっていくが、生まれたばかりのキメラはそれが不得手なようだった。
「ともに生まれた獅音はもうコントロールできていますけどね」
「そうだな。でも、焦ることはない。何しろ八種は難しいんだ」
研究員が業平の言葉に相槌を打つ。キメラ研究の歴史は長く、だが八種もの遺伝子をかけ合わせたというのは歴史上ない偉業だ。八彩は天を統べる翠宮の本尊となる。すべてのキメラの頂点に君臨する絶対神、神になることを望んで生まれた者なのだと。
「生き餌になることを望まれるおつもりですか」
業平は研究員の言葉に苦笑を浮かべた。
「あの時、主は酔っておられた。もう覚えてはおられまい」
「業平、業平はおらぬか」
帝が湿り気のある唇で呼ぶ。居室の外に控えていたが速やかに進みでて頭を垂れた。
「もっと、近うよれ」
命に従い敷居を踏み越え、居室に充満する異臭に眉をひそめる。錦の袴を汚す失禁に気づきそっと目を伏せた。
「キメラは順調であるか。名は何といったか」
股を恥ずかしげもなく広げ、酒を煽り続ける常軌を逸した主のその姿に顔を歪ませながら答えた。
「八彩、と」
帝が嬉しそうに笑う。
「優美な名であるな。一度顔を拝まねばなるまい。案内せよ」
「その前に衣更えをなさっていただきたく存じます」
巫女に着替えを手伝わせて主の支度が終わるのを静かに待つ。始終、酔った男の妄言が聞こえていたが目を閉じ忘れようと努めた。
支度が終わると境内の外れにあるキメラ研究所へ案内した。帝は歩いて十分ほどのこの距離も籠で移動する。酒に浸った体でまともに歩くなどもはや不可能だった。帝は籠の御簾を開けて翠宮の景色に目を馳せている。季節は春、桜のつぼみが綻んで満開の花がもうじき見頃になる。一番美しい時期である。桜の樹林一帯を過ぎると背高い紅葉の樹があって、青葉が波の花のように芽吹いていた。子供のような喜びを浮かべる壊れた心にふと思う。主は来年の春を迎えられるだろうか。
「業平よ、まだか」
退屈したぞといわんばかりの声に、業平は「じきに着きます」と返答した。広大な敷地を誇る翠宮神社の離れに心臓機関ともいえる研究所があるのにはいくつか訳があるが、大きな理由はただ一つ。万が一の際、帝がその危険を回避するためだった。キメラは暴走する危険を孕んだとても危うい兵器であった。研究員が狩られた事例も多く、それを危ぶんで帝の住まいから一番離れた離宮として建造されたのである。
伝統の流造の前に到着すると業平は籠の傍に控えた。
「心躍る景色であった」
帝は籠を運んでいた雲助たちに、一端の愛想を振りまくと、揺れる足で降り立った。
「以前訪れた時は冬であったな。あのキメラは良くなかった」
もう五年になる。帝にとっては懐かしいのだろう。
木組みから一転、研究所の内部は最先端の機材を投入した研究施設へと変わる。ガラスのシリンダーが灰色のリノリウムの床に目がくらむほど立ち並び、幼少のキメラが管理されている。シリンダーにはコントロール装置がついて、環境調整のためのものと聞いている。白袴の研究員が二十四時間体制で育成状況を見ていた。
シリンダーのキメラは少し育つと『鳥籠』と呼ぶガラスケージへと移し、レベル別に多頭飼育をしながら強さにランクづけしていく。最高ランクの者は神社の本尊として祀られ、低ランクの者は一般の憲兵としての道筋を辿る。ゆえにキメラは時間と金がかかる。
部屋のつき当りにひときわ巨大なシリンダーがあってチューブがたくさん接合されて厳重に管理されていた。瞬きする仔を見て帝が喜びを浮かべる。
「まあ、何と小さい。こやつはいくつだ」
研究員は弾む声に即答する。
「三カ月になります」
「名はなんという」
「八彩と」
帝は名前を聞いて深く感銘したようにその顔を覗きこんだ。
「何と雅な鳥であろう。抱いてみても構わぬか」
研究員はさすがに戸惑ったが喜色満面に断ることもできず、シリンダーの上部から幼子を出すとそっと帝に手渡した。腕の中で身じろぎする白く柔らかい肌と美しい光を宿した紅い瞳に釘づけになる。まだ短い艶やかな黒髪をひと撫でするとキメラが嬉しそうに笑った。頬をつついた帝の人差し指を小さな手で握り、きゃっきゃと声を上げる。
「八彩よ、父であるぞ」
父。帝は実際に八彩の父であった。八彩に組みこまれた八つ目のヒトの遺伝子、それは帝のものだった。決して賢帝とはいえぬが色白の美しい見目をしている。八彩の他のキメラと比較しても霞まぬ容姿はもしかすると帝譲りなのかもしれない。
帝は無邪気に問いかける。
「ずいぶんとかわいい子よのう。人は喰っているか」
有り得ぬ響きに言葉を失った。この方はもはや人の心まで破綻しているというのか。
「まだ……ですが」
「ならば早急に活きのいい贄を与えよ」
研究員は静かに頭を下げる。主の命に従い速やかに贄を投入した。だが本能が疼かないのだろうか、八彩はおびえる罪人をくりりとした目で一瞥しただけだった。
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