第15話 炎の来宮

 かつて人は神を作りだした。キメラという異形の神を。血を求め、残虐を好み、至高まで高められたのは兵器としての強さだ。だが、もしその彼らが心優しき者であったならば。他者を傷つけることを厭う者であったならば。彼の中に巡るほんの少しの人の血が湧き立つようにその魂に呼びかける。強き志を持って戦え、野生に身を落とすな。彼はふり上げた拳の一撃一撃に思いをこめる。望むのは自らの解放。運命という名の呪縛からの解放。


「なぜ人を殺す。なぜ意味もなく力をふりかざす」

「なぜ殺さない。殺せる者がいるのになぜ」


 獅音が思いの丈を叫びながら進化した野生の速度で迫りくる。優れた八彩の目ですら捉えることがやっとのスピードで、均された砂利を蹴り、小草を踏みしめ、わずかに触れた小川の表水が飛沫を上げる。優雅に飛んだと思うと牙が目前に迫っていた。八彩は押し倒されたまま、にらみつけるように獅音を見上げる。絡み合うが力が

まるで通じない。


「なぜ人を助ける。なぜ神の地位を捨てた」

「他者を愛したからだ。自分一人では生きていけないと気づいたからだ」


 獅音が八彩の首筋に牙をふり下ろす。


「くっ、ああ」

「それは弱者の思考だ。なぜこの世に喰われる者がいるか知っているか」


 首肉を剥ぎ取ると八彩の頸動脈をつかみ、首を力いっぱい押さえつける。


「この世に強者を生かすためだ」


 憎々しいまでの高飛車な心、八彩は意識が遠のくのを感じた。


「お前の中にある人としての情は弱さだ。その弱さが故にお前は死ぬ」


 獅音の呼吸とともに炎が口内から吐かれ、八彩の顔を包みこんだ。酸素が得られず痛くて引きずるような呻きをあげる。獅音は脱力した八彩を見て冷淡な表情で呟いた。


「思ったほどの強さでなかったな」


 首をねじ切らんと力をこめる。十数年待った相手はライバルではなかった。新しい楽しみはまた見つければいい。


「かはっ、ああ」


 最後の苦しみがもれる。手足が宙をかき、指先にまで届いた絶望は不屈の魂を枯らす。圧倒的な力で命をもぎ取ろうとする獅音の強さは本物だ。次第に全身の力がするりと抜け落ちる。指先の最後の力が途絶えようという時、舞い散る桜の音が心の水面を揺らした。



——八彩さま、生き抜かねばなりません。



 三年間一度たりとも忘れたことの無かった懐かしい言葉だ。途端に灯のように細った闘志が燃え盛る。自分には助けなければならない人がいる。何のために抗い生きるのか。それは闘いぬくため。生かされた者の決意は易々と折れる物ではない。


 諦めかけた拳に力が籠る。自身は果てるほど何も成し遂げていないのだから。獅音は獲物の喉がわずかに膨らむのを感じた。脱力した獲物がゆっくりと力を取り戻していく。


「お前は虐げられた者の悲しみを知っているか。奪った命を悲しむことはあるか」


 苦しみながら絞り出された声が怒気を孕む。先ほどまで弱々しかったタカの目が蘇り、燃え盛る炎を映す。紅く残忍な怒りの炎を宿している。八彩は両拳をゆっくり持ちあげると大きく膨れあがった獅音の剛腕を全力でにぎり潰した。豪快に骨の折れる音がする。


「ぐがっ」


 獅音は負傷した腕を庇うように抑えると顔をふりあげ空気を吸った。火を放つモーションだ。八彩は隙を与えず思いっきり拳を獅音の口内へとねじこむ。喉の最奥まで拳が突きささり、獅音は血を吐いた。


「命の価値を誰が決めた。天か、帝か。どうして喰う者と喰われる者がいる」


 八彩は怒りを迸らせた。獅音の喉から血があふれ、八彩の腕を伝う。


「強者は弱者を虐げることでしか己の矜持を維持できない愚かな生き物だからだ」


 八彩は怒りのままに獅音の頭を庭の山石へとぶつけた。頭骨の砕ける鈍い音がする。獅音が、目眩がするほどの傷みに顔を歪めた。血は岩へとにじみ、濃緑の小草を濡らす。再び拳をふりあげると一心不乱に頭を繰り返し強打する。


「お前は何人殺した。残虐に愉悦を浮かべながら何を思うんだ」


 ふりしきる猛りに獅子は答えられず血を吐き続ける。


「これが愉快か。楽しいか。心がどうしようもなく踊るか」


 身動きできなくなるほど殴りつけ戦意を奪うと手を口内からゆっくり引き抜いて冷酷に見下した。組み敷かれた獅音の目が呆然として燃えあがる夜を映す。風は大きな熱となって奔流を巻いた。燃えつきた闘志は炎に巻かれ消失していく。今宵は明月。偉大な神は月影を背負い言葉もなく獲物を見おろした。獅音は口元に笑みを浮かべそっと呟く。


「キメラに生まれたことを誇りに思え」


 タカの爪がふり下ろされて、獅子の心臓を鮮やかに貫いた。




 黄金の宮は緑の炎を巻きあげながら一晩中燃え続けた。その地方に来宮ありと謳われた宮の終焉である。立ち上る戦いの狼煙、喰い物にされた人々が天に牙を剥こうとしている。


 小さな戦いの意思はこの来宮で花開きやがて大きな魂となろう。今はまだ小さくてもいずれ神を脅かすほどの奔流となって天に降り注ぐ時がくる。一つの戦いを通して失った命に悲しみ、手に入れた自由の価値を知る。今はまだ立ち止まる訳にはいかない。残された者たちは拳をにぎり戦いぬく意思を固める。


 鷹がその決意を見守るように静かに鳴いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る