第10話 狂気の居室

——人種キメラがこの世に発現したのは今より二百年以上も前のことである。翠宮神社の内包する独自の遺伝子研究機関『キメラ研究所』が初めてのファーストキメラを創り上げたことが発端であった。ファーストキメラとはいわばキメラの第一世代、人と生物との混血生物である。初期の開発ではさほど残虐性を持った個体は稀であったが、次第に殺傷能力を強化し、セカンドキメラと呼ばれる第二世代、人と生物との混血生物の開発に成功すると翠宮神社は飛躍的にその力を増した。幼少期からセカンドキメラを子飼し、猛獣と戦わせる訓練を密かに繰りかえして国家転覆に向けて力を蓄えたのである。


 やがて国中が戦乱に陥り、多くの犠牲の元で翠宮神社による支配の世が確立した。不当な支配に抗うレジスタンスのようなものは数多いたが、翠宮はそれをキメラという殺戮の武器で抑制した。反乱する命をもぎ取り力で屈服させる時代が訪れた。


 翠宮の治世の始まりである。


 翠宮帝は東に居を構え、国内に各地に分社を建立した。北の方宮、西の来宮、南の清宮はその顕著なもの。キメラは人に非ず。それが初めてできた大綱だった。兵器に権利を認めれば帝自身が危うくなる。ただし、それではキメラがついてこない。考えた翠宮帝は一部のキメラに現人神あらひとがみという立場を与えて神格化することで彼らの特別な地位を確保した。


 ゆえに彼らの為したことはすべて罪に問わない。神を裁く者などいないのだから。キメラは残虐を内包し、本能のままに生きて人を殺す。一人で満足しなければ何人も殺す。けれどもそれはすべて罪に問わない。いわばキメラは神社による不当な支配の象徴だった。



       ◇



 照葉は足音を大仰に鳴らし、長大な廊下を歩いた。警備局の騒ぎは本殿にまで伝わらず、ごく静か。夜半ゆえ就寝している者も多かった。篝火の前を通過すると橙の火先が揺れた。深夜警護の下氏が廊下の曲がり角でうやうやしく頭を下げる。


 心にあるのは万が一、事が起きたらという一抹の不安だった。何も起こらない、何も起こっていない、でも実際に何かがあれば。レジスタンスの急襲はこれまでにも経験している。だがそのほとんどは若い頃、指揮するような身分でない頃の些末な経験だった。難攻不落の拠点で連中も手を焼いている。金の法衣はどんなに荒く活動したところで破れない。


 来宮は西の治世を一身に請け負い、存在することこそ大儀で本尊獅音の脅威はすべての下郎どものたばかりを抑えていた。西を征する者は国をも征すとはふんぞり返った神主の増長だが実際そのくらいの覇気があった。ゆえにこの地に大事が起こってからでは遅い。


 急いた心で本殿にある神主の居室の前に到着すると、侍る巫女が目礼した。


「どうした」


 静かな篝火に浮かび上がった瞳が大きく揺れている。巫女は隠しきれぬ動揺を露わに戦慄かぬよう我慢していたが、嗚咽したかと思うと顔を覆った。違和が静かに残る。


 何事かと呟きかけて障子に目をやり戦慄した。鮮赤の血筋が舞っていた。薄い障子の上をまるで能のように演舞している。思考が停止して素肌が急速に温もりを失った。氷を浴びたように冷めたくなっていく。口元を手で覆っても、肝が震えるのが止められない。凝固した足をそっと引きかけると声に呼び止められた。


「入ってよいぞ」


 静かに招かれている。神主の声ではない。目をつむり、心音が一拍打つのを待つ。覚悟が決まらない。


「……いえ、大した用では」

「入れといっている」


 糸のようなか細い吐息が漏れた。障子枠に触れてそうっとよせる。漂う臭気の濃さに眉をよせた。青畳の上にできた血だまりは人一人分。その中に白檀の扇が沈んでいた。神主が翠宮帝より賜りし白檀の扇が。灯明は消され奥は見えず、呆気にとられていると暗闇で何かが蠢いた。異形の気配、それを醸し出せる者など来宮には一人しかない。


「お加減が悪うございますか」

「そんな風に見えるか」


 しだい暗雲が晴れ、月光が居室に注ぎこむ。明光が陰に潜みしその姿を露わにした。


「獅音さま……」


 照葉は名を呼び絶句した。頭首のない体がふりまかれた美酒のように艶やかな血液をまとって横たわっている。獅音がそのそばで錦の着物を血に染めて、膝を立てて座っていた。くつくつとかすかに聞こえたのは空耳だろうか。


「照葉か、北で騒動があったそうだが」

「収めることに気を砕いております。所用がありますのでこれで」

「去ってよいと誰がいった」


 獅子は蹴鞠のような塊をその剛腕でにぎっている。天に弾き、受け止めて。それを何度か繰り返すと血だまりへと投げ落とした。塊が地だまりを転げ、青畳の上で静止する。照葉は目を割けるほど見開いた。三白眼のように見開き、絶命している彼の表情は阿鼻叫喚。さぞ、おそろしい物を凝視したままの双眸で時が静止していた。


神主こいつが存ぜぬ、…………といっていたが。お前は知っているか」


 背筋を幾匹もの虫が駆け上がる。言葉を瞬馬の速度で理解した。先日のただあの一石を、主を毒で弑しようとしたその罪を咎めているのだ。体に残る最後の熱が青畳へ霧散していく。足裏が硬直して離れない。高鳴る鼓動をのどの奥に押しこめて努めて冷静に応じる。


「恐れながら何のことか」

「そうか」


 獅音が血溜まりの中で静かに立ちあがった。ぴちゃりぴちゃりと地音を鳴らしながら近づく。屏風絵のように記憶が捲れていた。犠牲にした者の上で成り立つ栄華、でも自身がいつでも上にいるとは限らないのだ。臍をかみ、もう飼い切れぬと心で呟く。


 近づく足音を数えながら、怜悧な頭でこれから自身に起こることを想像する。犠牲になった誰もがこの恐怖の刻を経てきたのだ。そして、これまで数多の人間を見送り昇りつめたその勘が告げている。今、自身の命はここで終わるのだと。粟立つ心で起死回生の算段を探すがもはや思い浮かばず、狩られる獲物のように震えるしかない。明月が獅音の壮麗な顔を照らした。暗闇で出会った蒼の目は、天下の獅子のごとく煌めいていた。

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