2章 燃ゆる舞台

第8話 謀殺

「臭い」


 獅音が吸い物の椀を近づけて眉根をよせた。庭には初冬を知らせて大輪の黄菊が映りこんでいる。その澄まし顔も茎をそっとひねるだけで容易く手折れるだろう。照葉は雀の羽ばたきを耳にしながら、ゆらぎを押しこめるように目を閉じた。キメラは鼻が良い。


 料理長が真を知らず、即座に焦りを浮かべた。


「早急に別の物をご用意いたします」

「かまわぬ、お前飲んでみよ」


 優雅に差し出されたうるしの椀ににじりよる。手が触れるのさえ恐ろしいのだろう、恐縮しきって椀を受け取った。日頃より最高の物をと心がけている至高の懐石だ。中でも腕が如実に表れる一品といっても過言でない吸い物が、気を配り取った出汁が、魚臭いなど有り得ぬはず、そんな心の戸惑いが聞こえてくるようだった。


 不安を浮かべながらも許しを得て嗅いでいる。香りに違和を覚えなかったのだろう。すっとひと口、目を閉じて切に味わうようにした。自惚れのような吐息が一つ聞こえる。


 瞬間、内腑を突き上げられたかのような衝動が居室にほとばしった。


「ぐっ、ごっ、ぐあああ」


 鮮やかな赤が口元からあふれる。料理長は口を押えて天を拝んでいる。大量の血が指のすき間から瓦解し、真新しい若緑の畳を汚した。巫女たちが悲鳴をあげて蒼白になる。


「くっくっくっく」


 獅子が立て膝をして倒れ伏した料理長を拝みながら愉快そうに笑った。傍仕えたちが異様なものを見たかのようにおびえていたが、気に留めることもなく一人高笑いを響かせている。失策だ。照葉は苦い顔をひるがえすとすぐさま凛と割って入った。


「獅音さま、この度の不手際誠に申し訳なく存じます。食事は早急に新しいものをご用意致しましょう」


 照葉は傍らで慎ましく平伏した。獅子おどしが庭で一つ、切るように打つ。


「……照葉」

「はっ」


 照葉は微動だにせず鮮明に声を上げた。瞬刻、間が空いて。その一言が研ぎすまされた刃物のように注ぐ。


「そなた………………謀ったのではあるまいな?」


 居室が打ち水を播いたように静まった。人々の視線が凍り水のように注がれるなか、一筋の汗が照葉の額をすっと伝った。押しこめていた緊張が一気にこみあげ、心臓が波打つ。体中の血脈が粟立つ恐怖に圧迫され、庭の小川の優雅なせせらぎも耳も入らない。


 賢しいキメラめが。強張る指先をよりいっそう畳に押しつけるとさらに深く叩頭した。


「恐れながら私の存ぜぬこと。早急に咎人を探しだして参りまする」


 この臨界点に達しそうなほどの心音が聞こえてしまったら自分は危うい。薄氷を踏む思いで獅音の言を待つ。一刻が無限に感じられるようなやり取りに限界という二文字が浮かびあがった。やがて獅音の微笑する吐息が聞こえた。


「そうか、では任せよう」


 気抜けするほどのあっさりとした返答に胸をなでおろした。途端に汗が引き、警鐘が静まる。ほっとして口元が緩むがそれは決して見せてはならぬ。自身はこの時に勝ったのだ。一刻、得意の算段を巡らせた。さて、代わりに誰を差し出そう。いざとなれば神主すらも切り捨てよう。いくらでも知恵が回るから困り物だ。くつくつと喉がふれそうになるのを懸命に押しこめた。急くな、ただ今は慎まねばならない。


「かしこまりましてございます」


 照葉は伏したまま顔に大輪の花を咲かせた。



       ◇



 夜景がのぞき窓から見えているが静かなものだ。大都市ゆえのにぎわいがあるかと思えばそうではない。夜の町には戒厳令が敷かれ、見つかれば通行人は暫時収監される。不穏分子を排除するための神社側の措置だそうだ。


 不穏分子の存在は一般に知れているが大抵は無関心。火の粉が降りかからねばそれで良い。すでに不当な支配から逃れようという高望みは止めている。あの列車の老人のような達観だなと思った。彼は無事か、置いてきてしまった色々なものが気になり始めていた。


 誘蛾灯が街路で爆ぜた。目を向けると、憲兵が二体街灯の下で談笑している。いい気なものだ。今日起きる革命の息吹を知らないなんて。


「サクヤ」


 名を呼ばれて双眼鏡を下ろすと目前の仲間とアイコンタクトを交わした。


「分かってる」


 逸るな、といいたいのだろう。急いた気持ちは否定できないが、作戦を遂行できないほどに感情的になっているわけではない。革命は冷静に起こすもの。静かに海の底を進むようにじりじりと忍びより一気に砕く。


 手にしたマシンガンが重荷だとはもう思わなかった。このマシンガンは作戦にあたり支給された物だ。絶えず揺れているような感覚が残り、訓練もかなりしたが重たくて、両手で抱えなければ衝撃で吹き飛ばされそうになる。しばらくの訓練のあとようやくまともに撃てるようになり、連弾が的を撃ちぬいた瞬間これならできると決意を固くした。


 あのおびえはもうない。きっとない。決意のままに胸元のネックレスをにぎり締めた。夜明けの鷹に加入した時に貰ったものだった。




「お前にこれを渡しておく」


 言葉にふり向くと仲間がトップに羽のついた華奢な金色のネックレスを垂らしていた。


「夜明けの鷹の一員である証だ」


 ベルゲンが服の中から同じものを手繰りよせる。みんなの首にも小さな金の筋がかかっていることに気づいた。感情が結束を促すようにせり上がる。


「私、仲間になれるかしら」


 千切れそうなほどに華奢で、でもとても重いものだった。たくさんの願いがこめられている。にぎり締めると思いが湧いた。よりいっそう仇を打ちたいと思う心が奮いたった。


「単なる飾りだ、重荷に感じる必要はない」


 八彩の言葉にベルゲンが苦笑した。


「みんなお前ほどに豪気ではない。だからこういう物が必要になる」

「お前はもう仲間だ」 


 歓呼に震えた。ネックレスを首にかけると仲間という言葉の重みが増す。孤独に凍えそうだった心を羽が温めてゆく。欠けたものが戻ってくる感覚があった。




 ふいの釣鐘が思考を割った。神威の山の方角だ、日を跨いだのだろう。警戒と潜伏の精神的な疲れで吐息が糸のように綻ぶ。


「気負うな」


 こちら側の緊張を感じたのだろう。八彩が斜向かいでそういった。前のサクヤなら気負っちゃ悪いかと、そういったかもしれないが。


「ごめんね、わたしにはみんなの思いもあるから」


 銃身に触れて思い返す。新宮での凄惨な処刑、ここもしくじればああなるのだと。


「オレたちは勝つ。ベルゲンの作戦は機能する、だから一人で為そうなんて思うな」


 もう一人の仲間の言葉が心を打った。備蓄倉庫というのがいけない。もう少しの辛抱だ。ベルゲンたちは森を進んでいるころ。暴発しそうな復讐心は押しこめて作戦の遂行のためには冷静でなければならない。緊張の糸が切れないようにそっと瞳を閉じた。虚空はまだ鳴らない。ただ、ひたすらに仲間の合図を待望している。


——信じて号砲を待て。


 涙雨に空が崩れた。予報にはなかったからじきに止むだろう。憲兵たちは談笑を終えて神社の方角へと帰っていく。ほっと一息、のぞき窓を見るのを止めた。


「復讐が済んだら組織を抜けろ」


 八彩が真っすぐな目でいった。ずっと溜めていたのだろう、そういう響きがあった。


「どうして、仲間よ」

「あんたの目的は来宮だ、それも照葉ただ一人」

「国を変えたいのよ、伝わらなかった?」


 これほど真剣に挑んでいるというのにその覚悟も伝わらなかったのか。


「わたしの目的は強制支配からの脱却。みんなの仇は討ちたいわ。でもそれだけじゃない。虐げられる人々の……」

「あんたのは擦りこまれた義侠心だ」


 えっ、と目を見開いた。言葉が継げずに黙りこむ。


「失った兄たちの仇を取りたいという、あんたの決意は分かってる。でも、戦い続けられるような覚悟じゃない」

「わたしの覚悟を量ったのはあなたじゃない。リーダーであるベルゲンよ。あなたもそうしろといったでしょう。認めてもらったのよ」

「おい、止めろ。二人とも」


 もう一人の仲間が割って入る。でも、サクヤの言葉は止まらなかった。決意を侮辱されていると感じたからだ。


「来宮を倒して、東に向かい翠宮帝を討つ。あなたたちと同じ覚悟よ」

「翠宮は容易くない」

「攻略したような口を聞かないで」

「翠宮を知っているからいっているんだ」


 八彩の苛立ちが響いた。サクヤは呆気に取られて目を丸くした。そうか、翠宮を。彼はキメラなのだ。そのことを忘れていた。


「あなたは何者なの」


 目の虹彩が細まったような気がした。みんなそれぞれなんだから、本当はそういいたかった。でも、口にできない。真実は八彩の指摘するように照葉ただ一人に激しい怒りをぶつけている事情があって、それを見透かされているのだろう。


(自分でも分からないのか)


 胸元に手を伸ばした。たぶん己がどう戦っていきたいかは、来宮の決戦が教えてくれる。ペンダントをにぎると静かに決意をこめた。八彩がふと遠くの空をみて呟いた。


「始まる」


 振動が西から届いて鼓膜を震わす。一撃目は神社側を誘い出すためのパフォーマンス、できるだけ関心を惹きつけて派手に誘いだす。サクヤたちが待つのは二撃目の号砲だ。


(必ず勝つ)


 胸元で拳をにぎり、祈るように目を閉じた。

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