第3話 痕
少年はステンレスの黒い屋根に爬虫類を潰すように叩きつけると中距離の間合いを取った。すさまじい風がふき荒れて立つ者を阻む。常人であれば、這いつくばり呼吸をするのさえやっとだろう。
荒野ばかりの遠景に低い常緑樹が混じり始めた。少年はもう町が見えるころかと思案する。髪をふり乱しながら上体を屈めてゆっくり立ちあがると、爬虫類をにらむように見据えて片手を水平に突きだした。
「大仰なパフォーマンスだろう、脅威など微塵も感じないが。何をするつもりか」
「お前と同じこと」
少年は静かな音色で宣告した。爬虫類はその様子を凝視した。少年の右の指先から肩までが液体金属のようにゆるりと溶解していく。まるで、爬虫類がその姿を変化させたように。獣の黒光りした毛並みに覆われ均整のとれた見事な上腕と獲物を切り裂く鋭いツメが出現した。爬虫類が得心がいったという様子でくたりと笑う。
「そうか納得がいったぞ、お前同類か」
「安直な表現だ。本当にそう感じているのか」
「どういう意味だ」
爬虫類は含みある言葉に顔をしかめた。少年は指をくいっと曲げてレールの外を指す。
「
爬虫類は粗い呼気を吐くと上体を落として臨戦態勢をとった。
「その戯言、ゆっくり後悔させよう。途中下車するのは貴様だ」
少年は足を引き肘を折り曲げると、すっと右手で左腕の感触を確かめるようにした。黒毛が毛筆のように艶やかに滑る。足の親指に力をこめて加速し、相手の懐へ飛び込んだ。爬虫類のごく厚のステーキのような巨躯をものともせず鮮やかに切り裂く。血がばらまかれた宝石のように鮮明に輝いた。
血の滴が屋根に降るより速く次撃を繰り出す。近接戦闘に長ける爬虫類も豪快に殴りかかってくるが、それを反応よくかわして顎を宙へと蹴り上げた。
「がっ」
脳震盪を起こしたところに少年はツメを食いこませ、三度の連撃。深く、二撃目はもっと深く、三撃目はより深く。足元がおぼつかず後方へ一歩二歩とよろめいて、しまいに電車の縁で天を仰いだところを片足をふり上げて爽快に蹴り飛ばした。線路に落ちて風に吹かれるゴミのように転がりながら、後方に過ぎ去っていく巨体を見送り、血の唾を吐くと破れたロングTシャツで口元をぬぐった。
少年は一人で車内に戻ってきた。血染めのティシャツから残虐が行われたことが分かる。彼の血かと心配したが痛がる様子がなく、そうではないことを理解した。五体の憲兵を一人でのしてしまったことも驚愕だったがサクヤはそれよりも少年の背に釘づけになった。
戦闘で破けたのであろう、白いティシャツから背中が覗く。無駄な肉を削ぎおとしたように鍛えあげられ、だが注目すべきはそこではなかった。二つの縦長の薄赤いあざが背に残っている。火傷の痕? いや違う、翼の痕だ。困惑していた気持ちが定まる、神なる気配の正体にようやく気づけた思いだった。
「あなた…………キメラね」
サクヤは殊勝な顔でつぶやいた。
ついて出た声が思っていた以上に震えていることに驚く。言葉を継げずにいると少年の瞳とぶつかった。人を魅了するようなガラスのごとき深紅の瞳、漆黒の髪は割れたガラス窓から吹きこむ突風で縦横無尽に荒れている。まっすぐ外へ向けていた視線を下ろすと風に混じる吐息が聞こえた。
「予定がくるった。このままじゃ、ベルゲンたちに合流できない」
無残な光景に少年はそうこぼした。言葉そのものの意味は量りかねた。少年は飛躍して考えなければ追いつかないような示唆をはいて煩わしそうにしている。深紅の目を車窓から目を離すとこちらに向かって歩いてきた。
ガラス片を踏みしめる音に拍動が高まった。すれ違いざま少年の指が触れそうになり身を固くしたが、その指はシート座部にしがみついたサクヤの髪をかすめそのまま通過した。
「くっそ」
背後で声がする。少年は事の後始末に失神した三体の憲兵を担ぎあげようとしていた。
「……手伝う」
サクヤはそばに寄り補助で足を持ちあげた。重い、とてつもなく重い。こんなに重かったのか。キメラなどはじめから相手にできたはずがなかったのだ。
二人で協力して割れた窓から失神したままの憲兵を外へ放りだすと、肩で荒く呼吸した。額には緊張からくる汗が薄っすら浮かびまだ動悸が治まらない。去りゆく景色に虚しさを覚えて言葉が震えた。
「無用の戦いだなんていわないで。冷たすぎるでしょう」
誰が糾弾したわけでもないのにそうこぼれていた。逃れるしかなかった後ろめたさからだった。ずっとこの思いを抱えてかれこれ二日逃走してきたのだ。
「あんたは何で連中に追われてたんだ」
心痛がした。サクヤは胸元に手をにぎると涙のにじんだ瞳で少年を見上げた。
「わたしは」
嚥下して凛と気持ちをこめるとこういった。
「……わたしは希望の翼の生き残り。制裁を受けて壊滅させられたレジスタンス、希望の翼の生き残りよ」
「希望の翼」
少年は思い当たったように少し考えていたが、ふっと理解したようにこぼした。
「新宮で照葉を狙ったあの無計画な連中か」
少年の切り返しに全身の血がたぎった。明らかな侮蔑である。
「あなたに何が分かるの」
反発的に銃を突きつけ叫んだ。だが、少年は動じず涼しい目でこちらを見ている。その目ににらまれると身がすくむような思いさえした。今分かった、綺麗なだけじゃない。彼の眼差しは向かい合う者を畏怖させるのだ。
「憲兵にさえ届かなかった銃でオレを始末するか」
少年の言葉が突き刺さる。そう、届かなかった。サクヤたちの、仲間の命をかけた決意はキメラに寸分も届かなかったのだ。あれほど用意周到に構え、命を賭した計画もすべてが愚かだったとそういいたいのか。理不尽につっと涙がこぼれた。
「力なき者たちの抗いを笑う権利はあなたにはないわ。そう誰にも」
サクヤは悔しさに拳をにぎる。死んでいった仲間の顔が過った。辛いことだった。すぐ泣くな、今日もう何度泣いた。どうしようもない自虐に顔を背ける。
「助けてくれてありがとう、でもわたしは戦う。さようなら」
立ち去ろうとすると前方の区画扉がだんっと勢いよく開いた。驚きで胸が逆立った。白袴の憲兵が大挙して駆けこんでくる。少年が呆れたように身ぶりして頭に手を当てた。
「情勢が変わった」
少年はそう吐き捨てるとサクヤの手を乱暴に引いて後方に向けて走った。起きていることを理解するのに心が追いつかない。連中がまた狙ってきた?
「無理よ、逃げられないわ」
「やるしかないだろ。それとも捕まりたいのか」
抗う言葉をふり切って走る。少年が乗降扉を腕力でこじ開けると外気が舞った。時速百キロの風が吹き荒れて燃料の濃い燻りが肺を満たしていく。少年はサクヤの華奢な体を抱きこむと走行中の夜行列車から外へと飛び降りた。
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