第2話 クラッシュ

 リノリウムの床が血染めになって朝焼けの光芒に照らされている。車内はレールを横滑りする車輪の音だけがやかましく、乗客は粟立った空気のなかでハリネズミのように身を縮こめていた。モノクロームの一瞬がフェンスの影とともに過ぎてゆく。

少年は血のついた右手を薙ぎ払うと涼しい目でキメラの肢体を打ち捨ててこういった。


「首を断てばキメラでも死ぬ。知らないのか」


 サクヤはあまりのことに言葉を失した。


(死んだのか、あの憲兵が。本当に?)


 銃ですら沈まなかったあの肉体を瞬時に捕らえ葬る剛力が人間のものなどとにわかには信じがたい。空気が凍ったなかで疑義がもれた。


「誰よ、あなた」


 サクヤは双眸で一心にその姿を見上げた。


 漆黒の髪と印象的な深紅の瞳の少年を脱しようとする顔は、確固たる意志が秘められているかのように奥妙だ。小柄でありながら均整のとれた鍛え上げられた肉体に貫くような強さを宿し、荘厳な立ち姿で朽ち果てた敵を見下げていた。あまりに神々しい、背負った陽光がそう思わせるのか。高雅なる眼差しは朝焼けを飛んでいったあの鷹の背に似ている。


「おい、お前!」


 指揮官が後背の三体に指図すると少年を前後の通路とモケットのシートの上から取り囲んだ。少年はちらと視線を窺わせる。間合いを測っているのだろう。


 乗客は蜘蛛の子を散らすように後方車両へと逃げていく。サクヤは窓辺に身をよせて二つの可能性を抱いていた。助かるかもしれないという一縷の望みと敗北すればともに沈まねばならないという憂惧だ。自信がなければできないこと、だがそれでも。


「あなたならば勝てるの」


 キメラが容易いはずはなかろう。薄氷をふむような気持ちで戦局を見つめた。瞬刻、三体の憲兵がカイトのように広がり少年を強襲した。


 少年はゆらりと揺れたかと思うと華奢な体躯からは想像できぬほどの運動力で足をふりぬいた。一撃で一体目をふき飛ばしたと思うと素早く身をよじり、手首をつかんで腕の関節を蹴りあげた。骨がくだける音がして汚い悲鳴が天井をつく。


 あごに鮮やかな蹴撃を叩きこみそいつの意識をうばったあと、シートの座面と背部に足をかけて身を起こし、反撃に出ようとした残りの二体の喉を左右の手でつかむと頭同士を激しく打ちつけて失神させた。ものの数秒で青のモケットに沈めると少年は頭をかしげて指揮官に問いかけた。


「あんたもやる?」


 圧倒的な身のこなしを以って造作もないことといい捨てた。


「バカな、憲兵を容易くのしただと。それも三体同時に。お前人間か?」

「そういうはどうなんだ」

「器用に戯言をはく」 


 憲兵は少年の皮肉にふんと笑うと足を半円にスライドさせて幅広く開き、両拳を打ち合わせて激しく身を震動させた。


「うおおおおおおおお」


 気化熱が背から蒸気機関のように立ち昇り、体がみるみるうちに流動的な変化を始める。


 ああ、これは。恐怖がサクヤの体を這いずった。


 はじめ変わったのは四肢。奔流が巡るように上体へと雪崩れこみ、全身がめりりと膨れあがって筋骨隆々とした姿へと変わっていく。皮膚が褐色に変化して爆発したように上衣を突き破った。深いシワが崖のように隆起して肩と膝に刻まれている。分厚く強靭な表皮は太古の昔に栄えた巨大生物を想起させる。あの潮騒が押しよせてサクヤは喰いこむように指をにぎりしめた。


 熱火のなかで激しく炙られたあの恐怖を忘れようはずがない。仲間を千切り捨て、死に食らいついたキメラの残虐が。一昨日の光景が目の裏に蘇り、肩が震えて戦慄きそうになった。爬虫類は力強いまでの暴力性を醸し出し、生臭い血のにおいが呼気から漂う。


「殺す、コロス、ころす、殺す」


 爬虫類はしゃがれた声で壊れたように繰り返す。人の性質はどこへ潜められたのか、傲慢な立ち姿には理性のかけらもなかった。少年は落ち着き払った様子で見すえている。


「脆弱な、神威にあてられ声も出ぬか」


 少年が荒ぶる声に瞳を光らせて、ほうと息をもらした。


「この国では末端のあんたにすら神(・)を名乗る資格があるのか」

「神?」


 サクヤは口ごもる。彼はその言葉に反感があるととれた。いいや、彼ばかりでない。反旗を誓った己も同じ、だからこそ身命を賭して抗ったのだといえる。


(だからわたしを助けるのか)


 行き場のなかった理解が腑に落ちた気がした。爬虫類は笑って吐き捨てた。


「好きにほざくがよい」


 地鳴りのような雄たけびをあげるとモーションなしの拳の一撃を繰りだした。その初速、ふり抜くさますら見えなかったが、拳が少年の頬に突きささったところでようやく見えた。少年はきりもみしながら前方の区画扉までふき飛んだ。はめこみのガラスがぶつかった衝撃で粉砕して、それがくずおれた少年にふり注ぐ。


「ってえ」


 ガラスにまみれた髪をふり払いながら頭に手を当てつぶやいた。鮮血が骨ばった手の甲を伝って服を汚す。目にした途端、ぞっとしたものがサクヤの身を包んだ。

相手はだ。死んでしまう、このままでは確実に死んでしまう。


 自分をかばってくれた人の、他人の死を見届けてまで貫きたかった正義があるのか。こんな無用の死があっていいはずがないでしょう。


「動け、動くのよ。何考えてるの」


 腿を叩けば涙があふれて止まらなかった。こんなに悔しいのに手や脚が凝固して立ち上がれない。あの惨劇のなかで逃走することしかできなかった哀れな自分がまだここにいる。


 少年はガラスをじゃりとふみしめると脚部に力をこめて加速した。右手をふり下げながら勢いをつけ、懐に飛びこむと同時に拳で爬虫類の腹部をねじりあげる。


「げぼっ」

「まさか、効いたの」


 荒ぶる巨体はサクヤの掻きつく淡い期待をにやりと切り捨てた。


「蚊のような拳など笑止」


 一笑に伏すと腹部に飛びこんだ少年の細腕をつかんで体ごと宙に持ちあげ、顔面に数発の打撃を叩きこんでいく。サンドバッグを殴るかのような鈍音が鼓膜にこびりついた。


「やめて、お願いやめて。やめてよ」


 か細い声は打撃音にすべてかき消される。血糊が少年の口から飛び散り、褐色の皮膚にふり注いだ。獲物の血が獣をよりいっそう猛らせているのかもしれない。少年は数十発の打撃のあと柳のように脱力した。


「うそよ。死んだの、死んでしまったの」


 サクヤの目に涙があふれる。ぼろ雑巾のように細身を床に叩きつけると、狭い通路でこれでもかと腹部を激しく何度も蹴りあげた。少年の体が座席の脚に阻まれ通路で浅くバウンドしている。


「ふ、ふっふ、はははははは」


 爬虫類は人を傷つける愉悦にひたり笑いを押さえられずにいる。満足いくまで蹴りあげると最後に少年の体を足で軽く仰向けに転がした。少年は薄く吐血していた。すでに動かないのを確認すると爬虫類は少年をふみ越えてサクヤの元へと近づいてきた。


「さあ、逮捕しよう」

「くっ……そんなの。いい加減にしてよ」


 両手で銃をかかげるがガタガタ震えてまともに指に力が入らない。撃ちたい、撃ちたい、なのに。どうして。恐怖に心が絞りあげられていく。距離が三メートル、二メートルと縮まり、荒々しい気息が近づく。


「ダメよ、動くのよ。分からないの。全部あなたのせいなのよ」

「何をざわめいている」


 恐怖で抗うことすら忘れてしまったのか。ふっと陰影が動いた。少年が爬虫類の背後で立ち上がるのが見える。


(生きている、あれほどの打撃を受けながら?)


 サクヤは驚愕に目を見開いた。


「どうした、怖じて声も出ぬか。キメラが怖いか、キメラは怖いか」


 爬虫類は絶句のサクヤを嘲笑する。少年はすっと手を引くと反動で爬虫類の後頭部をスマッシュした。傲慢な身体がシートの背部に撃ちつけられて逆さまにリノリウムへ落ちる。


「痛てえ、痛てえええじゃねえか」


 爬虫類は気が触れたような声で叫ぶとシートを引き千切るようにして身を起こした。


「生きてやがったなあああ」


 少年はジーンズの足で爬虫類の首に回し蹴りを食らわせた。厚い顔面が窓ガラスへと衝突する。サクヤは身を抱くようにして縮こめた。少年は体重をかけてつかみかかると爬虫類の頭をガラスに突きつけ叫んだ。


「撃って」

「えっ」

「ここじゃ戦いにくい、分かるだろう。ガラスを撃って、早く」


 糾弾されるまま渾身の力で引き金を引いた。ガラスが木っ端みじんに砕け散ちり朝陽を乱反射する。二人は虹色の散光のなかで煌めきが失われるより早く車外へと消えた。

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