翌日、十二月二十四日。二学期最後の一日は終業式と大掃除で終わる。


 長い校長の話を聞き終えて退屈な終業式を終えた後、美化委員会主導で学校の大掃除が始まる。赤羽は教室を、伊織は2-Bに依頼された区域の清掃を、各クラスの生徒を率いて済ませた。十一時を過ぎる頃には大掃除も一区切りが付き、一般生徒は帰宅する。


 それまで、赤羽と伊織は一言も言葉を交わしていなかった。


 何度か目は合うが、改まって会話するような時間が無かったのだ。


 しかし、一般生徒の帰宅後に美化委員会は掃除で出たゴミを処理する役割があり、赤羽と伊織はそこで一度解散をする運びとなった。


 ゴミ袋をゴミ捨て場に運び終える頃には、時刻は十二時を過ぎていた。


 仕事を終えた赤羽は、早く伊織に謝罪をしなければと息を切らして彼女を探す。一先ず荷物だけ回収してしまおうとゴミ捨て場から教室へ戻ると、そこに彼女は居た。


 誰も居ない昼下がりの教室。伊織は自身の机でスマートフォンを触っていた。


 こちらに気を遣って帰ってしまった可能性も考慮していた赤羽は、安堵にため息をこぼす。


 走って戻ってきた赤羽を視認した伊織は、慌ててワイヤレスイヤホンを外して立ちあがろうとして、赤羽はそれを手で制する。彼女の席に歩み寄った。


「……お疲れ様。帰ってなかったんだね、よかった」

「う、うん! 赤羽さんも、お疲れ様」


 伊織はおどおどとした様子で赤羽を労い、二の句を告げようとして押し黙る。


 数秒、二人は見詰め合ったまま沈黙した。教室を静寂が包む。


 空いた窓の奥から生徒たちの騒ぎ声が聞こえ、それに静けさが破れたのを合図に、赤羽は微かに息を吸う。意を決し、伊織に深く頭を下げて謝罪した。


「あの、昨日は――」

「赤羽さんにお話が――」


 喋り出しが被り、お互いに面食らったように顔を上げる。


 見れば、伊織も腰を折って何やら謝罪らしきことをしていた。


 「あ」「えと」と二人で視線を合わせながらタイミングを図る。彼女の瞳を見れば、どことなく赤羽に先を譲るような気配を感じた。微かに頷くと、伊織も頷き返した。


「昨日は――」

「赤羽さんに――」


 再び重なった。思わずお互いに口を噤み、形容しがたい表情で顔を見合わせた。


 先ほどの顔は明らかに先を譲る者のそれだったような気がしたのだが、と思っていれば、彼女も似たようなことを考えていそうだった。しばらく無言で顔を突き合わせた後、赤羽は懸命に笑いをこらえながら弱く吹き出し、伊織はにやけ顔を誤魔化すように唇を噛んだ。


 笑いを押し殺すのに数秒、お互いが要する。その後、赤羽は手を上げた。


「私から失礼します!」

「は、はい! どうぞ!」


 選手宣誓のように手を上げて言えば、伊織は今度こそ頷いてそれを認めた。


 赤羽は脳に酸素を回すように息を吸う。出鼻を挫かれ、空気が弛緩して。有耶無耶にしたくなってしまったが、けじめは付けるべきだ。そう、彼女に頭を下げた。


「……昨日、ごめんなさい。勝手に不機嫌になって困らせた」


 腰を折って頭を下げ、五秒。胸の中で数えてから赤羽は顔を上げる。


 普段であれば反射的に謝罪を拒む伊織は、今日ばかりは熟考を挟んで応じる。数秒、黙して思案した彼女は、丁寧に言葉を選んで頭を下げた。


「ううん、あれは……何も答えなかった私が悪いよ。だから、私こそごめんなさい」

「そんなことは無いよ。私だって、もし今、伊織さんにパンツの色を聞かれても答えないもん。誰だって言いたくないことはあるし、私が……おかしい」


 強い言葉で己を否定すると、伊織が素早く赤羽の両手を両手で包むように握る。


 瞠目する赤羽に、伊織は必死な表情で訴えかけた。


「おかしく、ないよ。ファンを自称して近づいてるくせに、その……応援する内容を選別してるなら、気になるのは当然だと思う」


 自身の手を包み込む伊織の手が柔らかく温かく、赤羽は静かにそこへ視線を落とす。


 しばらく見つめていると、自分の行動を再認識したように伊織は「わ”」と濁った声を上げ、頬を染めながら慌てて手を剥がそうとする。


 しかし、赤羽は離れていく彼女の両手をそれぞれの手で掴むと、それぞれ握る。半ば反射的な行動だった。心まで温めるような感情が惜しかったのだ。甘い電機が走ったようにピクリと彼女の手が動き、伊織は赤い顔で目を丸くして赤羽を見る。


 赤羽は彼女の両手を握ったまま、微かに顔を俯かせて詫びる。


「言い訳をするつもりは、無いんだけど……」


 赤羽はそう前置きをして切り出す。段々と自分の顔が熱くなっていくのを知覚した。


「生まれて此の方、ちゃんとした友達を作ったことが無かったんだ」


 驚いたように伊織の目が丸くなる。意外だろう。いつも輪の中にいる人間だった。


「昔から承認欲求が強くて、色々な人に褒めてもらわないと気が済まなかったから、交友関係が広い分だけ深い付き合いは無かった。それでも満足できなかったから裏垢も作ったけど、投稿内容があんなだから、誰にも言ったことも無いの」


 顔が熱くて仕方が無くて、どうして掃除をするのに換気をしないのかと掃除当番に愚痴を言いたかったが、見れば窓は全開で風も吹きこんできている。冬の風に負けない熱が心にあった。そんな赤羽の意外な顔を、伊織は呆然と見つめていた。


「伊織さんは趣味が合って、秘密を共有できる初めての友達だったんだ。初めて深い部分で繋がれる友達だったから――ちゃんとした友達は隠し事なんてしないんだって勝手に思い込んでた。それなのに秘密を教えてくれなくて、友達と思ってるのは私だけなんじゃないかって不安になって、八つ当たりしたの。だから、ごめんなさい」


 改めて謝罪の言葉を紡ぐと、伊織は微かな動揺を瞳に示す。揺れた瞳を、しかし一回の瞬きの後に真っ直ぐと赤羽に向けると、伊織は赤羽の手を握り返す。


「わ……私は」


 震える声だった。


「この関係は友人じゃなくて、一方的な憧れだと思ってたんだ」


 指先に痺れるような感覚を覚え、赤羽は微かに目を見張る。脳髄を殴りつけられたような衝撃を覚えて眩暈を感じる中、そんな赤羽の意識を繋ぎ止めるようにきゅっと手を強く握ってきた。心を抱き締めるような熱と、柔らかく滑らかな肌、皮膚を越えた向こう側に彼女の心臓が送りだした血液を感じる。鼓動が早く、強かった。意識が手に集う。


「ずっと憧れていて目指していた凄い人が、私なんかに特別な感情を持ってくれる訳が無いって思っていたから……赤羽さんが私に話し掛けてくれるのは、偶然趣味が合って秘密を知って、その上で赤羽さんが優しいからに過ぎないって言い聞かせてたよ」


 まるで先日、赤羽が腹を立てたJ男のようなことを言うものだから、思わず言い返したくなるも、周囲から見たらそう見えて当然の行動だったと悟る。明確に言語化した訳でも、言葉で伝えた訳でもないのだ。それでも、身勝手に理解してくれると思っていた。


「そんなの……」


 半ば脊髄反射で食い下がる。伊織は情けなく笑った。


「……分からないよ。私だって、友達居なかったから」


 ――赤羽が中身のない言葉で誰かにチヤホヤされている間、彼女はずっと一人だった。教室の後ろの席で、スマートフォンで動画を鑑賞しながら一人の時間を過ごしていた。存在は知っていたが全く別の世界を生きる者同士として認識していた。


 赤羽は秘密を共有し、踏み込んだ言葉を交わしたから友達だと思い込んだ。


 伊織は自分の中で完結しない関係が、果たしてどこから始まるのか知らなかった。


 『いつの間にか』と誰かは時期を説き、『気の合う仲間』と誰かは線引きを語る。しかし、どこからが友情で、何をすれば友達になれるのかを対極的な両者は知らなかった。


 伊織は、畏怖を殺すように唇を甘く噛み、上目に赤羽を見た。


「だから、教えてほしいんだ。私のこと、どう思ってるの?」


 ――それは君の一方的な感情だよ。


 そう告げて赤羽の友愛を切り捨てることだって出来たはずの伊織は、この関係を明確な言葉にするべく尋ねてきた。同情か、それとも彼女もこの関係を大事に思ってくれているのかは分からなかったが――震える指先と緊張の面持ちは何より雄弁な答えだった。


 喉が渇く。顔と心が熱かった。感情の熱砂に熱中症になってしまうような気がした。


 友情は惰性だと思っていた。関係や信頼の延長線上に無意識に踏み込むものだと思っていた。本来なら恐らくそういうものなのだろうが、両極端な意味で人付き合いが苦手な二人にとって、認識の擦り合わせはこの上なく大事なものだった。


 赤羽は、火が出そうなくらい熱い顔で伊織を見詰めた。


「友達だと思ってる」


 伊織は一瞬、この上なく嬉しそうに頬を綻ばせた後、懸命にそれを引き締める。


 強く赤羽の手を握り締め、震える声で応じた。


「それなら私も、胸を張るね」


 彼女は一度、深呼吸をする。呼気が不安定に揺れていた。


 赤羽に負けないくらい伊織の頬が火照って、彼女が微かに顔を俯かせた時は、髪の隙間から覗いた耳も真っ赤で、触れたら火傷しそうだった。顔を上げた彼女は、一生懸命に告げた。


「あ……赤羽さんは、友達だよ」


 ――嬉しかった。詳しいことはよく分からないが、ただ、嬉しかった。


 顔も知らない幾万人の『いいね!』より、目の前の臆病な少女のそんな一言の方がずっと嬉しくて、意味が分からなかった。疑問符が幾つも頭の中に浮かぶが、弾む心臓に加速した血流が全て洗い流していき、満たされた心だけが残った。


 赤羽は嬉しさの中に微かに混じった安堵を処理すべく、小さなため息をこぼす。そっと、掃除したばかりの教室の床に膝を置いて座り込む。握った両手はそれぞれ、そのまま伊織の膝の上に。今度は赤羽が伊織を上目遣いに見た。伊織は不意を突かれたように狼狽え、握る手に力を入れたり抜いたりして、それでも赤羽から視線は逸らさない。


 赤羽は、微かな不安を滲ませた声で彼女に訊いた。


「今後も……何度か間違えるかもしれないけど、見捨てないでくれる?」


 伊織は狼狽えていた表情に微かな驚きを見せ、それからすぐに笑う。


「そこはお互い様だと思う。私も……隠し事とかしちゃうから」


 なるほど、と納得すると同時に、赤羽は自身に不満や不安が無いことを知覚する。どれだけ親しくても隠し事くらいはする。それの数で関係や感情は変わらないだろう。「うん」と赤羽が頷くと、伊織は嬉しそうに口元を緩めた。


 それから十分ほど、二人は誰も居ない放課後の教室で、静かに手と心を繋ぎ続けた。






 先刻に投稿した有名カフェチェーン店の新作ドリンクの写真は、普段よりはやや少なめなものの、数千件近い『いいね!』が付いていた。


 夜のリビング。両親の帰宅が遅いのをいいことに風呂上がりの半裸でソファに寝転んだ赤羽は、スマートフォンを手に頬を緩める。


 フォロワーは十万前後。数年前から始めたこのアカウントも随分と人が増えたものだと噛み締めながら、赤羽はスマートフォンを操作してアカウントを切り替える。


 次いで画面に表示されたのは、先刻に作成した『あかばね』という別アカウントだ。


 フォローもフォロワーも一名。繋がっているアカウントは『いおりん』という名のアカウントのみ――そう、伊織だ。裏アカウントしか所持していなかった赤羽は、彼女の勧めで個人的な交流をできるアカウントを作成することにしたのだ。


 開設から数時間。これから近しい趣味のフォロワーなども増えていくのだろうと思いつつ、今だけは伊織と二人きりの時間を噛み締めたかった。伊織のアカウントをしばらく眺めていた赤羽は、ふと数十分前に何やら投稿があることに気付き、スクロールする。


 見れば、画像なんて高尚なモノは無い簡素な一文だった。


 『友達ができた!』。ただ、それだけの投稿。


 公式アカウント以外のフォロワーなんて居ない彼女の、きっと赤羽以外には誰も見ていないだろう投稿。だが、その言葉に誰よりも喜ぶのは、他でもない赤羽だった。赤羽は微かに頬を紅潮させて笑みを浮かべ、堂々と彼女の投稿に『いいね!』を押す。心臓の音が聞こえるような気がして、血流が早くなった感覚を覚えた。


 赤羽は言い得ぬ感覚に悶えるように、「わー!」とソファの上でバタバタと足を動かす。胸の奥が締め付けられるような気がした。彼女にはこの通知が届いているのだろうか。見てくれているのだろうか、そんなことばかり考える。


 そんな時だった。バタン、と玄関の扉が開閉する音が聞こえ、赤羽は肩を跳ねる。


 数秒後、リビングのドアを開けたのは姉だった。


「ただいまー。悪い、バイトが長引いた……なにその恰好? 裏垢? 風邪引くよ」

「おっ、お帰りなさい。これはお風呂上がりで暑かったから」


 赤羽は頬の火照りを誤魔化すように、身を起こしながらそう答える。姉は軽く聞き流しながら「弁当買ってきた」と、二人前の弁当が入った袋をテーブルに置く。「ありがとー」と、赤羽は折り畳んだままの着替えに手を伸ばした。


 赤羽がシャツを被る最中、姉は疲れを押し出すべくため息と共に椅子に座し、蓋付きの缶コーヒーを呷る。喫茶店のバイトというのも大変なのだろう。彼女はひと息付いた後、服を着る赤羽の方に視線を投げた。


「それで、お友達とは仲直りできた?」


 質問に、赤羽は伊織の顔を思い出す。愚問であり、赤羽は不敵な笑みを返す。


「どっちだと思う?」

「あー、もう分かったから言わなくていい。アンタはほんと、顔に出やすいよ」


 赤羽の態度が何よりの返答だとばかりに、姉は頬杖を突きながら、安堵しつつ笑みを浮かべた。そんなに分かりやすいだろうか、と赤羽は自身の頬に手を伸ばしてグニグニと弄る。


 そんな折、姉は知ったような笑みを浮かべて呟き尋ねてきた。


「いい友達なんでしょ? 大切にしなよ」


 シャツに袖を通した赤羽は、一瞬動きを止める。素直に肯定するのも少しだけ恥ずかしかったが、蔑ろにする気など毛頭も無かったから、照れながらも頷いた。


「うん――」


 と、頷こうとしたその時だった。


 ソファの上に置いてあった赤羽のスマートフォンがバイブレーションを鳴らした。思わずスマートフォンの画面を見ると、そこには着信を示す受話器が表示されている。そして、その受話器アイコンの直上、発信者の欄には先刻連絡先を交わした伊織の名前があった。


 思わずスマートフォンに飛びついた赤羽は、露骨に狼狽えながらスマートフォン取り、「ごめん、電話!」と姉に断った後、部屋着のショートパンツを履く間もなく自室へと駆けこむ。弾んだ呼吸を整える間もなく、赤羽は電話に応じた。


「も、もしもし! ごめん、取るのが遅くなって」


 胸に手を当てながら詫びると、通話越しに伊織の緊張した声が聞こえた。


『あ、い、いや、私こそ急にかけてごめんなさい! その……今、大丈夫?』

「うん。大丈夫だよ」


 赤羽は心を落ち着かせながらそう応え、そっとベッドに腰を置く。


 数秒、沈黙の間が二人の間に流れる。やがて、発信者の伊織が口火を切る。


『あの、今日の投稿……カフェの写真、凄く綺麗だったよ』

「あ、見てくれたんだ! ありがとう」


 わざわざそんなことを伝えようとしてくれたのか。そう思った赤羽は、メッセージアプリでいいのにと思いつつ、彼女の声が直接聞けたことが嬉しくて、寧ろ今後もそうしてほしかった。そんなことを思っていると、どうやら本題は違ったようだ。


『それで、その、写真……もしかして今後は……えっちなの、投稿しないのかなって』


 思いがけぬ質問に、赤羽は微かに目を見開く。疑問符が浮かぶ。彼女の質問の本意が掴めず、数秒沈黙して小首を傾げた赤羽は、取り敢えず質問に対して率直に答えた。


「うーん、その辺はけっこう気まぐれかも。なんか人に褒めてもらいたいなって思ったら、やっぱりエロ系の方がウケが良いから出すかもだけど……やっぱ、嫌い?」


 顔も知らない数万人より、彼女だ。もしも伊織がどうしても苦手と言うなら投稿を控えようかとも思ったが、どうやらそういうことでもないらしい。伊織は露骨な安堵を声色に乗せつつ、言葉尻を一生懸命否定する。


『あ、ううん! そうじゃないんだ。そうじゃなくて、その……私のせいで赤羽さんの活動に支障が出るようだったら嫌だから、もしそうなら、ちゃんと理由を言おうかなって。あれからしばらく考えて、そう思ったんだ』


 そう聞いた赤羽は、思わず大きく目を見開く。――彼女が赤羽の性的な投稿に『いいね!』を付けたがらない理由。聞きたくはあったが、先日までと違い、今は無理に知ろうとも思わない。赤羽は少し悩みつつも彼女の意思を尊重する。


「聞きたいけど、聞かなくても活動に影響は無いし、隠したいことは無理に聞かないよ?」

『隠したい……訳じゃないんだけど、赤羽さんが不快に思うかもしれないから遠慮してたんだ。だから、できることなら言いたくないなって……でも、杞憂ならよかった。ごめんね、急に電話をかけちゃって。それだけなんだ』


 赤羽が遠慮をするや否や、彼女は安心したように通話を切り上げようとする。


 少し寂しいと思う気持ちもあったが、何より気になったのは『不快に思うかもしれないから遠慮していた』という部分だ。なるほど、つまりそれが事実だとすれば、赤羽が無理に聞き出そうとしても彼女が特別に困るということは無いわけである。


 一瞬、思案した赤羽は微かな笑みを浮かべて話を繋ぐ。


「もしかして、急いで電話切ろうとしてる? 掘り下げられない内に、って」

『い、いや、そういう訳じゃ……!』


 図星だったようで、声が微かに上擦っていた。


「ところで……さっきの、伊織さんが困る訳じゃないんだよね? 私が不快に思うかもってだけの理由なら、ぜひ聞きたいなあ。大丈夫、伊織さんのことで不快に思うことは無いよ」


 きっと、彼女は藪蛇だと己の行動を後悔していることだろう。唸るような苦悩の声が通話越しに聞こえて、赤羽は楽しくなりながら誘惑の声を出す。


「本当に駄目だとか嫌だとか思うなら断ってほしいけど、そうでないなら気にしないでよ。身体が気持ち悪いとかそれくらいまでなら全然、許容範囲内だよ」

『そ、そんなこと……! 言わないよ。そんな酷いこと』


 伊織は怒ったような声で猛然と否定した。安堵しつつ、嬉しさに笑みをこぼす。


「それより軽いことなら全然大丈夫。だから、教えてくれるなら聞きたいな」


 無理には聞かないが、本当に赤羽側を案じての理由なら、嬉しくは思うものの心配しないで欲しいとも思っている。裏垢なんてものをやっていると、心の底から気持ち悪いと思うようなメッセージも届くのである。それと比較すれば、彼女のどんな言葉も砂漠の甘露だ。


『あの……き、気持ち悪いって思うかもしれないよ。私のこと』


「でもさ、クラスメイトにエッチな投稿見せようとする方が、客観的に見て……まあ、この先は言葉を慎むけど。だから、心配しないでほしいな」


 客観的な物差しで測れば、友人に性的な投稿を見てもらえず不機嫌になる赤羽の方が、ずっと問題だ。そう思い、軽く笑いながら不安を拭った。


『ほ、本当に大丈夫なの? けっこう、嫌な思いするかも』

「そう念押しされると心配だけど、それが伊織さんの本心なら、言わないまま抱え込む方が友人として不健全な気がする。片方が我慢し続ける関係は嫌だよ?」

『……嫌わないで、くれるよね?』

「もちろん!」


 彼女の不安そうな声に、赤羽は力強く肯定を返した。


 それから、部屋と通話に沈黙が訪れる。少しドキドキと心臓を跳ねながら、ずっと気になっていたことの答えを待つ。待ち続けること十秒、彼女が微かに息を吸う音が聞こえた。


 一拍置いて、酷く緊張して震える声が答えを明かした。



『あ……赤羽さんの身体を、その、あまり大勢に見られたくなくて』



 ――言葉を失い、目を見開く。待望の答えは、赤羽が想像もしなかったものだった。


 身体を見られたくない、などと、まるで我が物顔の感情で、微かな独占欲が垣間見える。少し遅れて、彼女が不快になるかもしれないと言った理由が、そんな少し前まで顔見知り程度だった関係の彼女が、どんな感情を抱いていることに対しての不安だったのだ。


 見なくても、彼女の真っ赤な顔が思い浮かんだ。


 触れなくても、自分の顔が熱いことは分かった。


 お腹の奥が甘く疼くような気配の中、自分の感情の意味が分からなくて、赤羽の頭に疑問符が浮かんでは消え、浮かんでは消える。赤羽は下着だけを付けた下半身を押さえながら足を擦り合わせ、俯く。顔から湯気が出てしまいそうだった。自分を変態と罵りたくなるくらい彼女の独占欲が気持ちよくて、頭がおかしくなってしまいそうだった。


『少しでも投稿が伸びないようにって、あの、ささやかな抵抗を……』


 赤羽の沈黙をどう解釈したのか、伊織は焦りに舌足らずになりながらそう付け加える。「あ、ぅ」と言葉にならぬ声を上げた赤羽は、熱に覚束ない口を何度か開閉した後、「大丈夫、嬉しいよ」と濡れた声でハッキリと伝えて返した。


 彼女の言葉に対する返答としてそれが適切なのかは分からなかったが、ただ、浮かんだ言葉を精査せずに紡いで吐いた。それがどう伝わったのかは分からなかったが、きっと彼女も冷静ではないだろう。焦ったまま、逃げるように通話を終えた。


『じゃ、じゃあ、おやすみなさいっ!』

「あ、う、うん! おやすみ」


 赤羽が応じて一秒と経たない内に通話が切れ、ツー、と無機質な音が鳴った。


 赤羽は脱力するようにスマートフォンをベッドに落とし、熱の引かない顔に触れながら深く深呼吸を繰り返す。心臓がバクバクと煩く跳ねていた。リビングに戻る前にどうにか顔の熱を冷まさなければ、と赤羽は手で顔を仰いで瞑目する。


 訳が分からない。ただの友愛では説明のつかない感情と衝動に疑問符を浮かべつつ、少しずつ火照りの引いていく頭で必死に別の何かを考えようとする。しかし、浮かんでくるのは伊織の顔ばかりで、赤羽は己を嗜めるようにパシンと両頬を打った。


 ようやく落ち着き、立ち上がろうとした頃、赤羽はショートパンツすら履いていない自身の下半身に何か違和感を覚えて視線を落とし、下着の表面を見て「う」と呻く。


 非常に情けないような恥ずかしそうな感覚を覚えながらそそくさと下着を履き替え、そのままリビングに戻った。


 リビングでは、姉が二人分の弁当をテーブルに置いて、頬杖を突きながらテレビを眺めていた。どうやら赤羽の通話が終わるまで待ってくれていたようで、申し訳なく思いながら戻ると、こちらに気付いた姉がニヤリと笑いながら口を開く。


「随分と大慌てで電話に出たね。何? 好きな人?」

「ち、違うよ。件の友達!」


 茶化すような姉の言葉に、赤羽は半眼を向けながら言い返す。まったく、と思いつつソファに置いたままだったショートパンツを履いて、テーブルに着いた。姉が用意してくれた専門店の弁当の蓋を開け、割り箸を抜く。姉は微かに笑いながら、同様に弁当を開いた。


「なんだ。ようやく妹がそういうのに興味持ったのかと嬉しくなったのに」

「別に、そういうんじゃ……」


 割り箸を割りながら唇を尖らせた赤羽は、ふと、言葉を途中で区切る。


 不意に伊織の顔が頭を過り、心臓が跳ねて頭が真っ白になる。


 動きを止めて、何も無い空間を見詰めながら思案に暮れた。


 伊織は友達だ。共通の趣味を持っており、波長が噛み合い、本心を打ち明けられる数少ない友達。それ以上の感情は無いはずなのだが、姉の言葉のせいか、伊織と横並びに手を繋いで歩く姿や部屋で抱き締める姿を想像してしまう。忌避感は一切無かった。


 伊織を抱き締めたいし、伊織に抱き締められたかった。彼女に好きと言われたら、きっと『いいね!』を一億件貰うより嬉しいだろう。どこまでが友愛でどこからが恋愛なのか、恋愛経験の無い赤羽はまったく見当も付かなかったが、本能が告げていた。


 ――たぶん、伊織が好きだ。


 顔が段々と熱くなってきて、姉が暖房の温度を上げ過ぎたのかとリモコンとエアコンを順番に見るが、そういう訳でもないようで、意味が分からず、声をこぼす。


「……あれ?」


 思わず姉を見ると、彼女は驚いたように目を丸くして赤羽を見ていた。


 数秒、言葉も無く姉妹は顔を見合わせる。まさか冗談で言った言葉がその通りだとは思ってもみなかった姉は、しばらく驚きを隠せない様子だったが――やがて、椅子の背もたれに肘を突くと、ニヤリと笑った。


「孫の顔はお姉ちゃんに任せときな?」

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裏垢女子がクラスメイトに身バレする百合 4kaえんぴつ @touka_yoru

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