閉ざされた町

安達ヶ原凌

閉ざされた町



 夕焼けが空から落ちてきた。

丘になっている町の西側、その稜線の向こうに落ちた夕焼けは凄まじい光と熱を放ちこの町を襲った。

 道を行く人々の影が地面に焼き付けられる。建物は丈夫な骨組みを残し、その形を崩していく。強烈な赤が視界を塗り潰す。

 目の前に広がるのは、崩壊。

 その崩壊は私の元へもやって来る。夕焼けの熱が私の身体を焼きつくしてゆく。

 皮膚が溶け、流れ出た血が一瞬で蒸発する。息苦しく、苦痛に満ちた時間はいやというほど長く感じられる。意識を失いそうになると、痛みがそれを妨げる。そして徐々に身体がその形を保てなくなる。ぐずぐずに崩れていく自分の身体を、いつしか私は俯瞰しているのだった。


 うたた寝をしていたようだ。やはりあの夢を見た。

 窓の外は夢と同じ、毒々しい夕焼けの色に染まっていた。

 夕焼け空は嫌いだ。西の空を染め上げるあの不吉な色が。あのオレンジ色を、あの赤い色を見ると胸がざわつくような不快感を覚える。夕焼けを見ていると暑くもないのにじっとりと汗をかく、そしてなぜか無性に喉が渇く、ひりひりと喉の奥が痛むこともある。それでも私はこの窓の外に広がる光景から目を離せない。身動きもできず、ただ時間が過ぎていくのを待つことしかできない。日が完全に落ちて、夜が訪れることでようやく私は解放されるのだった。

 窓の外に広がる町並みはほとんど廃墟も同然だった。私の住むアパートは町の東端に位置し、四階の私の部屋は西側にベランダがある。そのせいで丘になっている町の西側がよく見えた。夕日はいつもその稜線の向こうに沈んでいく。窓枠に区切られたそれは、一枚の絵画のように毎日変わることもなくそこにある。窓の外をみるといつでも、夕焼けに染まった町並がそこにはあった。今は何時だろう、部屋の隅にある置時計に目をやるが、動きを止めた針が細い影を文字盤に落とすばかりだ。それでも今が夕刻であることは確かだ。乱雑に並んだ墓石のような灰色の建物たちを夕焼けが赤く燃やしているから……。

町には生命の気配がなかった。より正確に言うなら、町には死の気配が濃霧のように漂っていた、と言うべきか。細く黒い街路樹が並んだ通りを歩く人などはおらず、かつては何かの店だったらしい建物がシャッターを固く閉ざして並んでいる。文字が判読できなくなった看板がどこか墓標めいて見える。

町には、動く者の気配はなく、赤く燃えた墓石たちが長く黒い影をひび割れたアスファルトの上に落としているだけだった。目に入ってくる生き物といえば電線の上にとまった一羽の鴉だけだ。それさえも、じっと動かないでその黒い体を震わせることもなく、鳴声を上げることもしない。もしかしたら死んでいるのかもしれないとさえ思えてくる。聞こえてくる音といえば風が窓をカタカタと揺すぶる音だけだ。

そんな静寂に包まれた町並みを眺めていると、不穏な疑問が胸中に鎌首をもたげる。私は知らず長い溜息をついていた。もう、何度目だろう……。こうして一人、嫌いな夕焼けの景色を眺めながらため息をつくのは…………。いつから、私は独りなのだろう……? あの時計はいつから時を刻むのをやめたのだろう……?

 そんな疑問も結局はあの夕焼けに飲み込まれるのだ。疑問に対する答えが出ることは決してなかった。 

 遠くに五階建てのビルが二つ、直立不動で並んでいるのが見える。その隙間から入道雲が夕焼けに赤く染まった空を覆うように広がっていく。私はそれをただ黙って見ている。

目が痛くなるような赤だった。もうこれ以上見たくない。にもかかわらず、身体は金縛りに遭ったように動かせず、目の前に広がる夕焼けに呑まれた町並みから目が離せない。いつもならこのまま夜の到来を待つばかりなのだが、この日は違った。

 視界の端に、何か、動くものが見えた気がした。目線だけをそちらへ向けると、白っぽい人影が見えた、ような気がした。気のせいだったのだろうかと思いかけた時、私は確かに見た。長く伸びた影法師がするすると町の中を移動しているのを。あれは人間の影だ。この町に、誰かがいる。

ごわごわとした白い衣服を身に着けた人間のように私には見えた。しかし廃墟も同然のこの町には、もう私以外誰も住んでいない。この町には誰もいないはずだった。あれは何だ? 

 私しかいないはずのこの町に現れた何者か、それは私の平穏な日常に崩壊をもたらす者、そんな予感めいたものを感じた。その正体を突き止めなければならない。そんな気がして、私は居ても立っても居られなくなる。

 それでも私にできることは、この窓から町を見ることだけだ。だから、見慣れた景色の中に何か異常はないか、と窓の外を眺める。夕焼けの赤と黒い陰、町はこの二色に塗り潰されていた。

 ひび割れたアスファルトの通り、思い思いに並んだ一戸建てやアパート、何かの小屋、大小様々な建物の黒々とした外壁が閑散とした街の雰囲気をより陰気で憂鬱なものにしている

 次の日も、その次の日も、白い人影は見えた。見えるのはいつも決まって夕刻、私が夕焼けを前に動けなくなっている時だった。

私は、今まで以上に夕焼けが恐ろしくなっていた。夕焼けとともにやって来るあの白い人影が、夕焼け以上に恐ろしかった。

それでも、夕焼けから目を離すことができないように、白い人影からも目を離せない。窓辺から夕焼けに染まる町並みを眺め、そのどこかに白い人影を探してしまう。そして、それは必ずどこかにいた。電柱の陰に、通りの真ん中に、時には通りを挟んだ向かいのビルの窓辺に・・・・・・。それは次第に私の住むこのアパートに近づいてきているようだった。


 その日、窓辺から見る夕焼けの中にあの白い人影はいなかった。夕焼けの赤い光を浴びながら、安堵している自分に驚いた。あんなに恐ろしかった夕焼けを前にして不快感も焦燥感や不安感もなにも無い。いつしか私が恐れる対象は夕焼けからあの白い人影に変わってしまっていたのだ。

 しかし、安堵は一瞬のことだった。

 ガラスの割れる音が聞こえた。さらに、バキバキと何かを壊すような音も。ガタガタと物音が続く。建物の中に何者かが侵入してきたのだとわかるのにそう時間はかからなかった。窓の外から姿を消した白い人影が脳裏によぎる。奴らがこのアパートの中に入ってきたのか? 

 これまでとは違う意味で窓の外から目を離せない。恐怖のあまり後ろを振り返ることができない。振り向くとそこに、あの白い人影がいる。そんなつまらない想像をどうしてもしてしまう。そして、そのつまらない想像のために、私は身動きがとれなくなっていた。

その間にも物音は続いていた。耳をすますとギッ、ギッ、と階段を踏む音が聞こえた。のぼってきている。奴らは間違いなくこの部屋に近づいてきている。

ギッ、ギッ。階段の軋む音が近づいてくる。

 ガタン、とすぐ後ろで大きな音が聞こえた。それは終局の音だったか。

 今、あの白い人影がこの部屋の扉のすぐ向こうにいる。



「おい、人がいるぞ」

 相棒の声に真木は作業の手を止めた。顔を上げると夕日の赤い色が目に痛い。白い防護服に身を包んだ相棒の大津が夕日を背に何かを指さしている。

「何言ってるんだよ。こんなとこに俺達以外に人がいるわけ無いだろう」

 二人がいる場所は廃墟だった。より正確に言うと廃墟の町、ゴーストタウンだ。

「いや、でも確かに見たんだよ。ほら、あそこの窓のとこに」

 そう言って大津は通りを挟んだ向こうにあるアパートらしき建物を指差す。歪んだ窓枠や割れた窓ガラスが並んでいるが、どこにも人らしきものは見えない。

 放射能に汚染され、廃墟と化したこの街には、彼らのように特殊な調査に訪れる者すら稀だ。今、この閉ざされた町に真木達以外に人がいることはあり得ないはずだった。

 辺りには真木たち以外の人間がいるような気配はない。それどころか、人以外のあらゆる動物の気配がない。生命を感じられるものがあるとすれば、それは朽ちていく建物を浸食する蔦や苔、アスファルトのひび割れから伸びた雑草などの植物ばかりだ。鳥の鳴き声が聞こえてくることもなく、耳につくのは風に揺すられた廃墟がたてる乾いた音と真木たちが瓦礫を踏む音だけだ。

『おい、真木。何してるんだ? そろそろ汚染区域から離脱しないとヤバいんじゃないか?』

 突然、真木の持つ無線機から雑音混じりの声が届いた。同じ調査隊の別の班の者からだ。

「ああ、わかってる。もう少し調べてから離脱する」

 真木が無線機に向けて短く応答する。続いてすぐ隣にやってきた大津に向かって

「おい、聞こえたな? 15分だ。あと15分でこの町から出るぞ。それ以上は長居できない。それで、人が見えたのはあのアパートの何階の部屋だった? さっさと調べてしまおう」

「四階だ。信じてくれるのか?」

「いや、どうせ何かの見間違いだろう。一応確認しておくだけだ。ちなみに、お前が見た人影は防護服を着てたか?」

「いや、そんなふうには見えなかったな。普通の洋服だったと思う。顔はよく見えなかったけどマスクなんかも着けてなかったんじゃないかな」

 なら、ほぼ間違いなく見間違いだろう。放射能も弱まってきてはいるがもしも人が防護服も無しにこの町に入ればただではすまないはずだ。そう思いながらもなぜかそのアパートを調べなければならない気がする真木であった。

 今一度大津の指さしたアパートを見上げる。枯れかけた街路樹がその外壁に細い影を黒々と落としている。

 正面の扉はもうずいぶんと長い間、開閉されていないらしいことが足下に蔓延った苔から見て取れる。扉に手をかけると戸枠がゆがんでしまっているのかびくともしない。手近な窓を割ってみたものの、ガラスの破片で防護服を傷つけでもしたら大事だ。しかたなく、真木と大津は二人で扉を蹴りつけた。何度目かの蹴りで扉がバキバキと音を立ててわずかな隙間ができた。それをこじ開けて中へ入っていく。

 ひび割れ、汚れた窓から差し込む光は弱く、アパートの中は薄暗かった。オレンジ色の光の中で埃がキラキラと宙を舞う。エントランスとそこから左手に伸びる何もない廊下には厚く埃が積もっていた。ほとんど剥がれかけた壁紙には所々に黴らしき黒い染みが見えた。マスク越しでも埃と黴の混じり合ったような匂いを嗅いだ気がして真木は顔をしかめた。廊下に並ぶ扉はどれも固く閉ざされている。その奥に上階へと続く階段があるようだ。階段は、ところどころ建物の骨組みらしい金属が覗いていて埃と黴に加えて鉄とさびの匂いがさらに真木の顔を険しくする。一段踏むたびに鳴るギッギッという軋み音もまた不快だった。

 振り返ると、厚く積もった埃の上に二人分の足跡が残されていた。もし、この建物に真木と大津の二人以外に誰かがいたなら、同じように足跡が残されているはすだ。しかし、それらしいものは残っていない。

 二人は無言で階段を上っていく。聞こえてくるのは、二人のマスク越しのくぐもった息遣いとギッ、ギッ、と階段が軋む音だけだった。途中の階は無視して大津が人影を目撃したという四階を目指す。

「ここだ、四階の角の部屋」

 大津が固く閉ざされた扉を指さす。扉の向こうに人がいるような気配は感じられない。

 手を触れてもいないのにガタン、と音を立ててドアノブが床に落ちた。真木たちを招き入れるように扉がゆっくりと開く。わずかに躊躇してから真木が部屋に足を踏み入れた。遅れて大津も続く。

 6畳半ほどのワンルームだった。部屋に入ってすぐ右手にある扉は風呂とトイレだろうか。廊下や階段に比べてカビの匂いが強くなったようだ。

部屋の中は分厚い埃に覆われた調度品の残骸が、西に面した窓から差し込む夕日に赤く照らされていた。

「おい、誰かいるのか?」

 真木の問いかけに答える者など当然いない。そればかりか、人と見間違えそうなものすら何もない。

「ここだ。この窓辺に誰かが立ってたんだ」

 窓を指さしてそう言う大津の横顔が夕日に赤く照らされている。

 真木は念のために入ってすぐの扉の中も確認する。小部屋はユニットバスだった。当然人などいない。ひときわ強いカビの匂いが真木を襲うだけだった。

「やっぱり、誰もいないな。何を見間違えたんだ? お前。何もない部屋だぞ」

 真木の言葉には反応も示さず、大津は窓辺の床を凝視していた。

「おい、大津? どうした?」

 と、そこで真木自身も気がついた。大津が凝視しているものに。

 それは、影だった。大津のものではない。しかし人の影のようだった。まるで、誰かが夕日に赤く照らされた窓辺に立っているかのような影が埃の積もった床に長く伸びていた。

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