第46話 聖女と魔王とひらめいた名案
「……この方と二人にしてください」
聖女がわからぬほどの小声で言った。
「リノファ様?」
「ドリーン、皆さん、心配は無用です。お願いします」
「……承知しました」
ドリーンが兵士たちを連れて部屋を出ていく。
バタン、と扉が閉められると、室内は聖女と己の二人だけになった。
「……お久しぶりです」
ややして、聖女が先に口を開く。
「たしかに。久しいな」
「もしかしたら、来てくれるかもと思っていたのです」
聖女が目に涙をためたまま、微笑んだ。
「その様子だと、己が誰かわかっているようだな」
「当然です。魔王様でしょう」
「いかにも」
聖女は涙を拭いながら、微笑んだ。
「こんなに……嬉しいことはありません」
「……ぬぅ」
手を見る。
聖女は、己の手を勝手に恋人握りにしていた。
「………」
……まあ、これくらいはさせておくか。
まだちょっと泣いてるし。
(それにしても)
魔王と聞いて逃げるどころか、喜ばれてしまうなど情けないにもほどがある。
全ては記憶が残ってしまったせいなのだが。
「とりあえず、座ってよいか」
「もちろんです」
腰を下ろすと、聖女は対面ではなく、ミリ単位の距離で当然のように右隣に座ってきた。
(………)
なにか、いちいちペースが崩されている気がする。
まあ気にすることではないか。
この女との関わりも今日までのこと。
「私の記憶を消しに来てくださったのですね」
「ふむ。わかっているなら話が早そうだな」
己はさっさと終わらせた方が良い気がして、空いている左手を聖女にかざした。
「消す前に、ひとつお願いがあります」
聖女が、潤んだままの目で己を見ている。
かざした手が、ぴくりとする。
「なんだ」
「魔王様のお名前を聞いてもいいですか」
「……名だと?」
己の眉が、ぴくりと跳ねた。
「はい」
「あの時に聞けなくて、ずっと後悔していたのです。記憶がなくなる私の最後の願いです」
聖女は己の右腕に左腕を絡ませると、己の肩に頭を預けるようにして、もたれかかってきた。
「……ぬ……」
誰がいつ、そんなことをしてよいと言った?
「おい、いいかげんに――」
「どうかお願いします、魔王様」
聖女はすぐそばから、潤んだ目で己を見上げた。
すっと、涙が頬をこぼれ落ちる。
「……最後の願い、か」
己は天井を見るようにして、視線を逸らした。
「はい。私の中だけの秘密にしますから。よろしいでしょう?」
ぎゅっ、と絡みついてくる。
甘い香りが己を包んだ。
「………」
……なぜペースを握られている?
いや、それはともかく、名というものはおいそれと教えられるほど、安いものではない。
魔王の名には、力が宿っているからである。
(ふむ……)
普通に考えたら、人間に教えるなどということはありえない。
が、記憶を消せば、この女は教えた名前はもちろん、望んだことすら忘れることであろう。
(まあそれくらいはしてやらねばならぬか……)
この女は何代も苦悩の中を生きている。
その上、己の手違いで、今、新たに記憶を失うという苦難を与えるのだ。
「――カミュだ」
訊かれなかったから、リリスにさえ教えていない名だった。
「カミュ様……」
聖女が己の肩に頬を当てたまま、己の顔を見上げる。
「素敵な名前ですね。カミュ様……」
聖女は名前を口の中で何度も繰り返した。
名で呼ぶことができることを、心から喜んでいるのがわかる。
(そんなに嬉しいのか)
そこまで喜ばれると、なんだかこちらも嬉しく……。
いや、いかんいかん。
「では悪いが今後のこともあるので、そろそろ消させてもらう」
「はい。満足できました」
一応しばし時間を与えて、何度もカミュと呼んだのを確認し、己は詠唱を開始する。
いよいよである。
詠唱は滞りなく終了し――。
「〈
魔法の光がふわりと聖女を包む。
聖女の目がうつろになり、魔法が効果を発揮したのがわかった。
この魔法により、聖女の先代の記憶のほか、それとリンクしているものも根こそぎ失われる。
つまり、当代の記憶の一部までも失くすのだ。
己が彼女に慈悲をかける気になったのは、そういう理由である。
「………?」
聖女は己の右腕に絡みついたまま、きょとんとした顔で己を見ている。
まだ離れる様子がないが、頭が整理されればこれもなくなろう。
「ふぅ」
己はシャンデリアが飾られる天井をもう一度見上げ、大きく息を吐いた。
長いようで短かった人間の世界での暮らし。
それもこれで終わ……。
「……カミュ様?」
「げ」
背筋が凍りついた。
「嬉しい。なくなりませんでした」
聖女は嬉々として、いっそう己の腕に絡みついた。
あ、いい匂い……。
いや、香りを楽しんでいる場合ではない。
「ま、待て」
「はい?」
「なぜ消えぬ」
「きっとカミュ様が大好きだからです♡」
聖女がにっこりと笑う。
「………」
つい見惚れる。
か、かわいい……。
いや、馬鹿たれ。だから今はそれどころではない。
〈
失敗したことなど、一度もない。
なのに、なぜ効果が現れない?
名前まで知られて、この失態はありえない。
「もう一度かける」
「はい。いいですよ」
詠唱が短かったか。
重複式でもう一度詠唱してみよう。
「〈
再び、魔法の光がふわりと聖女を包む。
聖女の目がうつろになっているので、やはり魔法は効果を発揮している。
しかし。
「カミュ様♡」
「………」
己はそのテッパンぶりに閉口させられる。
「答えよ。なぜ消えぬ」
「きっとカミュ様が大好きだからです♡」
だから魔法発動にそんなルールはありません。
「………あ、まずい」
己は座ったまま、斜め後ろを見る。
はるか遠方に、強大な悪魔たちの気配を察知していた。
リリスだ。
馬鹿げているほどの大軍を連れている。
ここにきて、さすがに堪忍袋の尾が切れたようである。
(おいリリス)
ここで聖女を殺されては元も子もない。
地上もメチャメチャにされてしまう。
(ξέρω πώς νιώθεις, αλλά πήγαινε πίσω προς το παρόν)
(………)
(Κάντε περισσότερα αναμνηστικά από τους αγίους)
(………♡)
ほっと胸をなでおろした。
リリスは最後の説得に応じ、大部隊をUターンさせて戻っていってくれた。
リリスには己の名前を教えていなかったからな。
それは怒る。
「しかしどういうことだ……あ、まさか」
そこで、やっと気づいた。
「聖女。そなたまさか、記憶が消えないとわかっていて、己の名を聞いたのか」
「………」
聖女があからさまに視線を逸らした。
「知っていたのだな」
「………」
「答えよ、聖女」
問い詰めると、聖女はこくり、と頷いた。
「……うまくいってよかったです」
そう言って、聖女は己の顔色を窺うように、ちらりと見た。
「そなたの記憶を消さぬうちは魔界へ戻れぬ。なぜ記憶が消えぬのか答えよ」
「では、教える代わりに私の願いを訊いてくださいますか」
「ぬ」
「カミュ様。きいてくださいますか」
聖女がその顔を寄せてくる。
「………」
なんか、前にもこんなことがあったような。
が、今はこちらがお願いしている立場である。
きくしかない。
「言ってみよ」
「『護衛隊』に加わってください」
「『護衛隊』……だと?」
聖女はこくん、と頷く。
「カミュ様のお力があれば、簡単なことでしょう」
己はふむ、と思案する。
別に難しくはないが、それだと無駄に長い契約になる。
少なくともあと半年はかかろう。
「それより、代わりに【勇者の呪い】とやらを解けるか試してやろう。それでどうだ」
己はより楽な代案を出すことにした。
「……えっ」
聖女が驚く。
「うまくいけば今から苦しまずに済むぞ。もちろん当代だけの話になろうが」
「………」
「嫌な記憶もなくなり、後は気楽に魔王討伐に来れば良いだけだ。悪くない話であろう」
最高の代案だと、我ながら感心させられる。
しかし聖女はあっさりと首を横に振った。
「へ?」
「カミュ様が隣りにいてくださる方が嬉しいです」
「呪いを消すより、か?」
「はい」
「………」
なんでそうなる。
「ちなみに、『護衛隊』にならなかったらどうする」
「各地で演説をして、魔王様の優しさを世界にお伝えします」
「ぐぬ……」
歯噛みする。
そ、それだけはまずい。
「カミュ様、どうかおねがいします」
聖女は当初の話で約束させようとしてくる。
「ううむ……」
なぜだ。
この女と話していると、何か手のひらで踊らされているような感が……。
「もしそうしてくださるなら、覚えていることは金輪際、誰にも言いません。約束します」
「だがな……」
己は顎をさする。
確かに己の力をもってすれば、『護衛隊』になるくらい簡単である。
ちょうど、テルルもそれを望んでいる。しかし……。
「『護衛隊』に加わって終わりではなかろう」
聖女は頷いた。
「どうか私たちと、魔界の最奥まで来てくださいませんか」
「勇者パーティとともに、この魔王が、か」
「はい。その通りです」
聖女はいつのまにか己の胸元まで侵食し、頬を当てたまま、目を閉じている。
言うまでもないことだが、「『護衛隊』になりました。はいさよなら」と魔界に戻ることはできない。
己(とフリアエ)の憑依が終わると、テルルはただの男に戻ってしまうからである。
そうなると、
己が離れた途端、テルルは魔界の魔物に殺されるであろう。
それこそ、ユキナという愛した少女の目の前で。
それは、宿った者として無責任に過ぎる。
テルルに宿らせてもらった恩を仇で返しているようなものだ。
『護衛隊』としてやっていくならば、やはり己が途中で離れる訳には……。
「………む?」
そこではたと気づいた。
「……魔王様?」
ちょっと待て。
(もしかしてそれ……)
己はかつてない名案をひらめいていた。
「………」
腕を組み、じっと検証し始める。
己はつい、聖女の記憶を消すことばかりに頭がいっていた。
それが成功したところで、人間たちの認識を改めることはできるが、結局は、今までと同じ。
やってきた勇者パーティを倒して、魔王としてのルーチンワークをするだけになる。
しかし、あと半年、己が最後まで付き添ってテルルを鍛え上げればどうであろう。
そう、勇者を軽く超えるほどに。
半年後、己と対峙するテルルが、かつてない精鋭となって立っているとしたら。
ニヤリ。
そうすれば、己は離れた後のテルルに負けられる。
魔王をやめられる……!
「……考えてみよう」
己はできるかぎり平静を装う。
心の中の己は、花畑を駆けながら、あの歌を歌っていた。
「――ほ、本当ですか!」
聖女が目を輝かせた。
「聞けば近々、アビリティカードが賞金となっている大会があるそうだな」
「はい、来月に行われる『剣武世界大会』ですね」
「ひとまずはそれに参加し、『護衛隊』候補となることは約束しよう」
「カミュ様、本当にそうしてくださるのですね!」
聖女は願いがかなったとばかりに歓喜し、己の手をぎゅっと握った。
己は笑みを浮かべ、つい、その手を握り返していた。
いや、それどころではない。
むしろ手を取り合って「こちらこそありがとう!」と飛び跳ねたい気分であった。
おかげで名案をひらめいたのだから。
しかし、努めて平静を装い、言う。
「護衛隊参加は私が宿っているこの男の夢でもあるからな」
「……宿る?」
聖女が瞬きをする。
「いかにも。私はこの男と身体を共有している。性格が違う時は己ではなく、この身体本来の持ち主が現れている」
「そうなんですね。ちなみにその方は何とおっしゃるのですか」
「テルルだ」
「テルルさん……どこかで聞いたような……」
聖女は思い出すようにして、天井のシャンデリアを見上げた。
だが思い当たらなかったようである。
当然だ。聖女に名乗った過去はない。
「ではそろそろ失礼する。約束は忘れるなよ」
己は立ち上がる。
絡みついていた聖女も、ちゃんと立った。
絡みついたまま。
「も、もう行ってしまわれるのですか」
「話は終わった」
なにか忘れているような気もしたが、もはやどうでもよい。
魔王を辞められる確実な道筋に気づいただけで、十分すぎる収穫である。
「お食事を用意してあります。湯と泊まるお部屋も準備させていただきました」
「さっき並んでいた奴の誰かに振る舞ってやってくれ。己は不要だ」
己は聖女の絡みをほどくと、やってきた扉へとスタスタ歩く。
「いいか、くれぐれも己の名は広めぬように――」
「――ま、待ってください!」
聖女が駆け寄ってきて、己の右手を両手で掴んだ。
「……カミュ様。またお会いできますよね?」
聖女が己をじっと見ている。
「だからその大会とやらに出向くと言っている」
「約束ですよ?」
聖女が勝手に己の小指をとって、自分の小指と絡ませた。
「『指切り』というやつか」
「はい。ご存知なんですね」
聖女が嬉しそうに笑った。
「ふん」
人間の女はどうして『指切り』というやつが好きなのだろう。
その呼び名を聞いてなぜ笑顔でいられるのか、不思議で仕方がない。
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