第3話 気遣い魔王、発つ


「ど、どうするのだ……歴史上最悪なことに」


 あの聖女の記憶が消せなかった。

 それはつまり、自分の今の行いが人間の世に広まってしまうことを意味していた。


「――魔王様」


 そこで、ふわりと魔王の間に舞い降りる者がいた。

 そのまま、膝をついて深く頭を下げ、かしこまる。


「リリスか」


 振りまかれたその甘い香りで、魔王は誰かを悟る。


 背にアッシュグレーの髪を下ろした、大人の女だった。

 艶のある上質な漆黒のマーメイドドレスはそのスタイルの良さをより際立たせ、大胆に割れたスリットから覗かせる白い太ももは、セクシーな蝶柄の黒タイツで覆われている。


「此度はお呼びだてを待てず、身勝手を参上したことをどうぞお許しくださいませ」


 リリスは頭を下げたまま、重罪でも犯したかのように畏まったままだった。


「構わぬ。頭をあげよ」


「……ありがたき幸せ」


 リリスはたったそれだけで目を潤ませ、感極まっていた。


「そんなにかしこまらなくて良い。むしろちょうどよかった。誰かと話したかったところだ」


「な、なんてお優しいお言葉を……心より感謝いたします」


 リリスはやっと上げたかに見えた頭をまた深く下げた。

 何年経っても変わらぬその丁寧な振る舞いに魔王は若干困惑するが、あえて何も言わずにただ咳払いをした。


「リリス。もしかして今の見ていてくれたか」


 魔王が訊ねると、リリスはその姿勢のまま頷いた。


「は。申し訳ございません。失礼と承知しながらも、魔王様の勇姿を目に焼き付けたく、終始を水晶で拝見しておりました」


「そうか……実は見ての通り、やらかしてしまってな……」


 なにかいい案はないだろうか、と訊ねようとした魔王の言葉を待たず、リリスは奏上した。


「この私にお任せください。地上に降り、今の汚れた人間ゴミクソを母体ごと抹殺してきましょう」


「い、いや、それは待て」


 さすがに殺されては困る。

 仮にもあれは、聖女だ。


 勇者パーティには断じて欠かすことはできない。

 人間たちの弱体化はそのまま、自分の不幸に跳ね返ってくるのである。


「……あの人間ゴミクソの女、魔王様に触れるなど! 私だって触れたことなど数えるほどしかないのに!」


(うわ)


 ブオォォ、という空気の唸りとともに、魔王にまで灼熱がやってくる。

 リリスは怒りのあまり、その身に地獄の業火をまとっていた。


「落ち着けリリス」


「――しかも魔王様のお胸を堪能するばかりではなく、その御頬に口づけを!」


 リリスのほっそりとした背中から、ばさり、と音を立てて6枚の漆黒の翼が現れる。

 怒りに制御を失い、悪魔本来の姿が露出し始めたのである。


「――ゴミクソの分際でぇぇ! 磔にして、死ぬまでくすぐってぇ、最後は生きたまま狼どものえさにしてくれる!」


 その整った顔を歪め、吼える。


 くすぐるあたりがリリスだな……などと感じている場合ではない。


「リリス、落ち着け」


 魔王が近づき、その両肩に手を載せた。

 リリスがはっとする。


「魔王様……♡」


 すぐにリリスはいつもの姿を取り戻し、その頬を赤く染めた。


「リリス、留守の間を頼めるか」


「……え?」


 リリスがきょとん、とする。


「留守? ご不在になさるのですか」


「私が直接、あの人間の記憶を確かめ、手を下してくる」


 リリスがはっとする。


「魔王様自らでございますか!? そんな! そんなことをなさる必要はございません! どうか我々にお任せを」


「私の失態だ。私が行くのは当然」


 本音は言わない。


 部下たちに任せたら、絶対にあの聖女を殺して、意気揚々と帰ってくるだけだ。

 そういう意味で、この仕事を安心して任せられる配下は、ひとりたりともいない。


「魔王様。決して失態とかそのようなことは……そ、それに」


 リリスが話しながら気づいたように言った。


「魔王様は手続きがお済みではありません。地上に降りるとすれば、ただの人間に……」


 そう。

 本来、悪魔が地上へ降りるためには、年単位で準備が必要である。

 それなしで地上で動くためには、一介の人間になるしかない。


 今持っている能力の大半を置き去りにし、レベル1からのやり直しである。


「いいのだ。自分でかたをつけてくる」


 魔王は断固として言った。


「魔王様……なんと責任感のお強い……」


 リリスは感涙している。

 魔王は身を危険にさらしてまで、魔界のメンツを守りに行こうとしているのである。


「いやいや」


 魔王は軽く困惑しながら言った。

 リリスの前で『早く魔王をやめたいから』などとは口が裂けても言えない。


「ともかく留守中はリリスを指揮命令系統の頂点に置く。有事の際は私ならどう動くかを念頭に置き、判断して決めてよい」


 魔王は言いながら、胸に浮かび上がる女の口に【輪廻転生】の魔法を詠唱させ始めた。


「………」


「聞こえたか、リリス」


「し、承知いたしました」


 リリスが片膝をつき、畏まる。

 突然魔王と離れることになる寂しさのあまり、リリスは言葉が出なくなっていた。


「では地上に転生する。潜伏に気づかれぬよう、そなたたちも行動を慎むように」


「ま、魔王様、お待ちを」


 そこでリリスがたたっ、と魔王に駆け寄る。


「なんだ」


「これを。私のカードにございます。きっとお役に立ちましょう」


 そう言ってリリスはアメジストが埋まった指輪を両手で差し出した。


「ああ、ありがとう」


 魔王はそれを受け取り、懐のアイテムボックスに仕舞う。

 確かに最初は無力な人間に転生するゆえ、ありがたい品物だ。


「そ、それから! しばらくお会いできない私を哀れと思ってくださるのなら」


「うむ?」


「ぜ……贅沢なお願いなれど、どうかこの私めにも……」


 リリスはもじもじしながら、魔王の胸をじーっと見ている。


(でもあの人間ゴミクソが許されたのだから、私だって……!)


 リリスは勇気を出して、言葉を続けようとするが。


「あー土産な。言われずともわかっている。ちゃんと持ち帰るから楽しみにしていろ。ではな」


 魔王は手を上げてリリスに頷くと、その場からサクッと消え去った。


「ま……!?」


 リリスは手を口に当て、目を見開いた。

 だが、もちろん応答はない。


「……魔王様……違うのに……」


 リリスはうつむき、そのまま、しゅんとするのであった。


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