第52話 SS 甄姫の憂鬱

 官女たちが両手に持つほどの大きい団扇で、そよりと涼やかな流れを生み出している。乳母たちに見守られながら、袁家の新しい命は静かに寝息を立てていた。


 甄姫、名を蘭。

 名門甄家から嫁ぎ入り、この度跡継ぎにも恵まれた、白面の麗人である。

 二重で切れ長の目の下には、妖艶さを醸し出す泣き黒子が一つ。

 

 初産を終えたとは思えないほどの、すらりとした細身の体は暇を持て余していた。


「のう、明兎。殿はまだご政務なのですか」

「はい、一の姫様……いえ、奥方様。先ほど大量の書簡が運び込まれておりましたので、恐らくは精励中であるかと」

「退屈ですね……いくら貴きものは自らの手で子を育てぬしきたりがあるとはいえ、手持無沙汰にもほどがあります。顔を見に行くくらいはいいのでしょうか」


 明兎は眉を『へ』の字に曲げ、軽く首を振って否定した。

 いくら実子とはいえ、奥方が直接あやしに行くのは、身分の低い行いとされている。乳母とその供回りに些事を任せ、家族のふれあいは予定をしっかりと組んでから行うものだ。


 他にも、甄姫が少人数で行動し、害意を持ったなにがしかに襲われる可能性もある。袁家の居城とはいえ、間者が潜んでいることは前提として生きていかなくてはならない。


「我が子を腕に抱けぬ母とは、情けないものですね。こんなことならば名家に生まれなければよかったのでしょうか」

「斯様に悲しいことをおっしゃられないでくださいまし。奥方様には奥方様にしか成し得ぬこともありましょう。此度も見事大任を果たされましたことですし……」


 明兎の言葉もどことなく歯切れが悪い。

 そのことに気づいた甄姫は、そっと重いため息をつくのだった。


「あ、奥方様、同僚の鈴猫から不思議なお話を受けたのですが」

「ふぅ、構わぬ、申してみなさい」


 それは初陣で袁煕がふと口にした名前で、彼自身も作ろう作ろうと考えながらも、先延ばしにしていたものである。


「鐙……なるものがあると、どのような兵であろうとも馬上で自由に槍が振るえるそうでございます。袁顕奕様が未だに馬術でお悩みの由にございますれば……」

「ふむ。わたくしの脳裏にはどのような道具なのか、形を得ることができません。そこで明兎よ、一つ頼まれごとを受けてくださいな」

「ははっ、この明兎、身命に変えましてもお申し付けを達成したく存じます!」


 甄姫は不思議な香りを感じていた。それは青銅のように錆び臭いが、菖蒲のように気品ある空気だ。


「して、明兎めは何をいたしましょうか!」

「…………まずは下着をはきなさい」


「みゃ……お、お見通しでございましたか」

「最低限、殿の前ではさらけ出さぬようになさいね」


 侍女の困った性癖にも、柔軟に対応する。甄姫の奥方としての器は決して狭くはないのであった。


「ふぅふぅ、袁顕奕様には二つ返事で了承されましたが、果たして良かったのでしょうか。いや、一の姫様の無聊をお慰めするには、きっと新しい風が必要にちがいありません」


 役目を果たし、そっと厠で下着を脱ぐ。

「バレたら……きっと……ハァ……滅茶苦茶に……」

 潜在的なドMである明兎は、ドSである甄姫と滅法相性がいい。

 さらに言えば、主筋の姫の下命に応えることができたのだ。多少はしゃぐのも無理からぬことである。


 だから気づかなかった。

 自らの懐から下着が零れ落ちたことに。

 さらに言えば、次に用を足しに来た袁煕が、それを拾ってしまったことに。


「奥方様、図面を手に入れましてございます。どうぞご検分くださいませ!」

「ご苦労様です。ふむ……難しいことは分かりませぬが、どうやら馬に乗せる鞍に、紐上のものを吊るして足を乗せる……のでしょうか。このような手段があるとは」


 甄姫の鼻が、ひくりと動いた。

 先ほど嗅いだ芳醇で重厚なものは、きっと山と積まれた黄金の匂いに違いない。

 この先進的な馬具を袁家が独占すれば、得られる利益は金銭のみでは推し量ることが出来ないものになるだろう。


 騎兵の量産は戦場に機動力と破壊力をもたらす。

 つまりは戦争の常識が一変する可能性を秘めているのだ。


「明兎、これは殿に信頼できる人物をお借りするべき案件です。手間をかけさせますが、文をしたためますから、もう一度使いに出てください」

「万事お任せくださいませ」


 甄姫のもとに送られてきたのは、痩身で青白いが、鷹のような眼光を放つ人物だった。


「某は郭嘉、字を奉孝と申します。奥方様に助力せよとの命を受け、参上しました」

「楽になさってね。貴殿は殿が持っている技術を形してくれると信じています。なので形式ばった言葉遣いも無用ですよ」

「それは重畳ッスね。いやぁマジで緊張しちまいましたよ。殿から奥方様のとこへ行ってこいって言われるとはね。警戒心があるのか無いのか……ほんと面白ぇなぁ」


 郭嘉の目は、甄姫が手で遊ばせている設計図に集中している。右に転がれば右に。左に転がれば左に、といった具合だ。


「もったいぶるのも悪いですね。さあ郭奉孝殿、こちらを」

「待ってたッスよ。どれどれ……ちょ、あはは、はははは、マジっすか殿。これすげえ受けるんだけど! そうッスよね、安定しないんだったら固定してやればいいんですよね」


 一瞬で内容を理解し、そして恐らくは甄姫の意をも汲み取ることができるだろう。

「殿は斯様な賢者をお抱えになられるまでに……きっと袁の旗は天に轟くことでしょうね」

 満足げに目を細める甄姫と、奇声を上げて喜ぶ郭嘉。

 互いのコンセンサスが取れたところで、実務は動き出す。


 鐙の発明史は、今この時を持って塗り替えられることになった。

 莫大な富は袁家の臣民を養い、戦においては精密な突撃を可能とする。馬上から短弓で射かけ、一撃離脱する戦法も考案された。


 郭嘉と甄姫。この類稀なる才能の持ち主は、主である袁煕の頭脳を解剖し、次々に発明品を世に送り出すことになる。

 

 新しく創設された会社である甄工房公司は、長きにわたり時代のパイオニアとして歴史に名を刻み続けていくことだろう。


「まさか厠に……女子の下着が落ちているとは。ゴクリ、これは……いいよな、いいんだよな? 俺やっちゃうぞ?」

 胸から空気という空気を出し切り、袁煕は顔を布にうずめる。


 すううううぅぅぅぅぅぅぅっ。

 

 これぞ神仙の領域。まさに文明開化。桃源郷の入り口。

 極楽浄土への特急券を片手に、袁煕は身体中にエナジーをみなぎらせる。

 今ならば、どんなことでも出来そうだ。気力が充満してくるのを感じ取っていた。


「面白きことをなされてますね、顕奕様」

「か、かえして……ください……」


 そう。甄姫に見つかるまでは。

「あ、いや……これは……」

「おどきなさいっ!!」

 強烈なキックが袁煕に炸裂した。


 その後のことは多くは史実の闇となっている。

 一説によると、夜な夜な閨には数多くの下着が運び込まれることになったという。


「わたくしので我慢なさい。まったく……」




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