第53話 SS 陸兄弟、弟子入りす

 陸駿なる人物はお家分裂の際に妻を亡くし、息子の陸遜・陸瑁と共に袁煕のもとに身を寄せた。

 壮大なる長江を渡り、さらに戦乱で荒れる中原を進み、黄河を経る。

 苛烈にして過酷な旅。幾度となく使えるべき主君を得ようとしたのだが、その望みは叶えられることはなかった。


「ゲホッ、ゴホッ。伯言、子璋、この父の身は病魔に冒され、もはや長くはないだろう。しかして、江南名家の陸一族の血統が絶えるのも無念の極み。二人とも袁顕奕様によくお仕えし、名を遂げておくれ」


 咳き込み、時折血痰を吐き出す陸駿は、死期を悟った男の目をしている。

 気がかりなのは自分が亡きあと、陸遜・陸瑁兄弟が立身出世し、武門の誉れを得てくれるか。否、みっともなくてもいい、天寿を全うしてほしいという親心が強く表れていた。


「父上、ご心配召されませぬよう。この陸伯言、袁顕奕様の近侍として任務を果たし、一族の名折れとならぬよう万全の手配をいたしまする故」

「その通りです。私は兄上の才には遠く及びませぬが、戦場に出られる許可を頂ければ、槍働きでも飯炊きでもして忠義を尽くしますぞ」


 陸遜14歳、陸瑁13歳と、まだまだ遊び足りぬ頃合いであり、良き師の下に入り多くを学ぶべき時期である。

 斯様な貴重極まる時期に、多くの苦難を背負わせるは父親として赤面する以外にないと、陸駿は心の中で嘆いていた。


「それよりも朗報がございます、父上。この伯言と子璋はこの度、河北随一の頭脳であらせられる、郭図様に弟子入りすることを許されました。少々癖の強い御仁であられますが、多くを吸収していく所存ですぞ」


 郭図、字を公則。

 南皮を治める袁顕奕の懐刀であり、智嚢の源泉ともいうべき軍師だ。

 軍略のみならず、内政の手腕にも優れている傑物である。

 江南から運び込まれた稲を取り扱い、寒冷地では栽培に適さない穀物を見事収穫したという農政家でもあった。


「郭図先生と言えば、南皮の食料を司るとまで言われている重臣だ。くれぐれも礼を失することのないように師事するのだぞ」

「心得ております。この伯言、陸家を必ずや復興させて見せる所存です」

「この子璋も志は同じでございます。安んじてお見届けくださいませ」


 心強き師を得た、頼もしき子供たち。

 陸績の専横に耐え兼ね、死地を脱した甲斐があるものだと陸駿は涙する。


「息子たちの新たな出会いを、涙で濡れさせるのは縁起が悪いな。父もまだ未熟よの……ゴホッ、ガフッ」


 慌てて駆け寄ろうとする子供たちを制し、陸駿はゆっくりと寝台から身を起こす。

 仕官して間もなく病床の徒となったのは歯がゆいことだが、圧してでも二人を送り出す義務がある。陸駿は命の灯に油を差して、子供たちの肩にそっと手を置いた。


「郭図先生とはいかなる人物でしょうか、兄上」

「こら、子璋。先生がもうすぐお見えになるのだぞ。じっとしていよ」

「申し訳ありませぬ……」


 陸遜は冷静に弟を律するが、その実自分の心も漣だっていた。

 河北随一の知将が、もうすぐ眼前に現れる。

 どのような叡智を受け取ることができるのか、今から楽しみで仕方がない様子だ。


「郭公則様のおなりにございます」

 侍従が先触れとして宣言し、間もなく腹黒い顔つきの男が部屋に入ってきた。


「ほっほっほ、その方たちが江南陸家の……いや、この郭公則、知己を得ることが出来て恐縮ですぞ」

「高名なる郭先生にお会いできで、歓喜の念に打ち震えておりまする。此度の儀を快諾してくださったこと、陸家を代表して御礼申し上げます」


 よいよい、と胡散臭そうな男は手を上下に振った。

 年のころは四十代半ば。一見して人相が悪く、いかにも無知蒙昧の輩に見える。


(風体に騙されてはいけない。郭先生は斯様な場でも我々を試されているやもしれぬ。決して油断するな)

 陸遜は額から一筋の汗が滴るのを感じた。

 酒場で酔いつぶれていそうな、人品卑しい男性のようだが、これは仮の姿。

 陸家の子弟が己の弟子に相応しき人材であるかどうか、入念に見定めているに違いない。


「ふむ、よろしいですぞ。では挨拶代わりに一つお題を出しましょう。お二人で智慧を出し合い、拙者の問いに挑戦されてみてはどうか」

「お題……でござりまするか。天下の郭先生の示される難問、是非ともお受けしたいと存じます」

「そ、某もです。兄ともども、袁顕奕様のお側役に相応しき者かどうか、先生にご指導賜りとうござる!」


 呵々と笑い、郭図は頤に手を当てると、口から珍妙不可思議な言語をのたまった。


「同条件の立地と兵力、そして将の詰める二つの城がある。右城と左城としておこう。諸君らが寄せ手の将であった場合、どのように城を落とすのかを訊ねてみたい」


 漠然とした問いに、陸家の二人は困惑する。

 兵数、兵站、訓練度、将の質、地形、天候、自軍の状態……。

 考えることや、前提条件となりうるものが多すぎる。

 

「拙者からの出題はそれだけですぞ。さぁ『思考』してみるがいい」

「先生の仰せのままに……」


 そう答えたは良いものの、陸伯言は焦りを感じていた。

 恐らく具体的な攻城戦は先生の求めるところではない。恐らくその前段階……いや、もっと戦の根幹につながるものを問われているのだと予測する。


「兄上……子璋としましては平押しが出来ぬ以上、一極集中しかないようにも思えますが」

「それは早計にすぎる。恐らく郭先生は大局を左右する、もっと大きな着眼点を求められているのだ」


 相談し、討議する二人を見ながら郭図は酒を一杯ひっかける。

 その泰然自若とし過ぎた姿は、身をやつした破落戸のようにも見えるし、神算鬼謀の士にも映った。


「はっはっは、拙者が酔いつぶれるのが先か。それとも解を得るのが先か。楽しみにしているぞよ」


 ぐびりと酒を飲み、臭い息をまき散らす。

 中国製モルボルの化身でもあり、農業の半神でもある男は悠然とくつろいでいた。


「……ですから、兄上! このような策は……」

「いや、火をつけるのが得策……何はなくとも火計は……!」


 白熱した議論は、昼を越え、やがて陽が沈むまで続いた。


「ごがーっ、ぐがーっ。うぃーっ、ひっく……ぐへへ、ぐへへへへ」

「……先生! 郭先生!」

「うむ、誰じゃ。せっかく天女と戯れておったのに……」


 酒に酔って寝落ちしていた郭図は、神仙の山々で桃を食べながら女色に耽る夢を見ていたのだ。

 目の前にいる陸家の二人の顔が、郭図の目に映る。


「なんと……美しい」

「えっ」


 陸遜・陸瑁兄弟は、見目麗しい女性と間違われるほどの容貌である。

 ゆえに郭図は勃起した。


「か、郭先生……その、回答が……」

「お、おっおっおっ。ぬふぅ、確かそんな話をしておったな。危うく無駄打ちするところじゃったわい」


 まだ未経験の陸兄弟には、郭図のダークマター思考がつかめていなかった。


「よろしい、では回答を聞こう。どのようにして二城を攻略するのかね」

「はっ、それでは……。此度の質疑に置いて、郭先生がお試しになられたのは上策・下策の理であると結論づけました」

「ほほぅ?」

「人の心を攻むるを上策、城を攻めるを下策と申します。故に何らかの方法にてどちらかの城の将を調略し、寝返らせることが肝要かと。そのために必要な部隊として、間諜の育成を怠る莫れと」


 某登山家の台詞を先取り、陸家は一つの真理を提示する。


「うぐ、ふふふ、お見事ですな。流石江南陸家の俊英かな」

「勿体なきお言葉でございます。その言質をもって、正解と受け取ってよろしいでしょうか」

「うむ。しかし常々考えなさい。人は思考を止めたときに死する生き物だ。万全の策などこの世には存在しないと仮定し、あらゆる方法を模索するのじゃぞ」


(やった……! 父上、陸家の名を……誉れを守りましたぞ!)

 陸遜は体が瘧のように震える。そしてあまりにも深い考察の、さらに上を行く郭図の姿勢に感極まったからだ。

 

 河北を征すること、即ち天下を征する。

 陸遜は今、確かな手ごたえを噛みしめていた。


(何ぞ、このガキども……拙者の『賄賂』や『突撃敢行』を選ばぬのか。ええい、賢し気な者どもめ。これでは拙者が殿よりお褒めの言葉を得られぬではないか!)


 郭図はこの日、陸家の兄弟を徹底して悪の道に誘うと決めた。

(くっくっく、どこまでも邪道に堕としてみせますぞ。拙者の出世の礎になるがよい)


 彼の企みは純朴な少年には、恐らく通じてしまうだろう。

 そう。

『全言裏目』のステータスさえなければの話だが。



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