蘇杭異類譚

@kuroneko0901

第1話 高二、青き衣の女に遇す

 南宋の純宗の頃のお話。

「空に天国有り、地上に蘇杭スーハン(蘇州、杭州)有り」と言うように蘇州城そしゅうじょう靖康せいこうの変以降、空前の活気に沸いていた。


 居酒屋、肉屋、八百屋の商店が軒を連ね、串焼き、饅頭の屋台が道脇を占領し、南大道は本来の大きさの三分の一も留めておらずその狭い大通りを承認の馬車、買い物に来た下女、主人に用を遣わされた下男、下級官吏などがひしめき押し合い、それは詰まった血管のようにごちゃごちゃしていたのだった。


 その中、高二は群衆の中を俯いてとぼとぼ歩いていた。年の頃、二十二程。粗末な鼠色の着物にくすんだ帯を締め浮かない表情で歩いている。

 そう、彼は鯉養殖家の下男なのだが、主人よりいい遣わされたソウギョ、コイの得意先への配達の帰り、代金を先ほど麺屋ですられてしまい途方に暮れていたのだった。

 ああ、ジャオの旦那は許しちゃくれねえだろうな、何たって、十貫文だもんな、うん、十貫文だ、いくら温厚な旦那でも許しちゃくれねえ。

 飯抜きか。いや、最低でも棒打ちだろうな。いや、それくらいで済んだら御の字だ。追ン出されたら明日からどうしようか。


 そんな事をぐるぐる頭の中で終わりなく考えながらとぼとぼ歩いていると、いつの間にか城外に出ており、夕方の太陽が黄金色こがねいろに輝いていた。

 もうこんな時間か、秋は日が暮れるの早えな、早く帰らないと更にジャオの旦那にどやされるぞ。ああ、でも歩きすぎて足痛えな。


 そんな事をぼんやり思いながら疲れた足を速めたが、気づくといつもと違う道から帰っていたのに気づいた。やれやれ、遠回りかよ。晩秋の日暮れは早い。あっという間に辺りは薄暗くなっていた。


 ふと脇を見ると、道脇の池の真横に切り株がちょうどよくある。そのまま帰るか一休みするかひとしきり迷った後、高二は、えい、と思い切って腰をどっかと下ろした。


 冬の蘇州城外は蕭蕭しょうしょうたり。あんなに騒いでいた蟋蟀コオロギも今ではすっかり大人しくなり、しん、と静まり返っている。ただ月明りが池に反射してゆらゆら揺れるのみ。水面に映った自分の顔を見ながら帰り着いた後のジャオの様子を想像するとますます憂鬱になるのだった。


 そうやって、もののしばらく水面を眺めているとふと耳元で「どうしたの?」とふっと女の囁く声が聞こえた。

 えっ、と振り返るが誰もいない。

 その拍子に再度水面の自分の顔が映ったが、水面の自分の顔のそばに笑みを浮かべた若い女が映っている。

 えっ、と再度振り向く。

 やはり誰もいない。

 「寂しいの?」ぞくっとするほどふーっと耳元で息遣いが聞こえて来る。

 うわっ、と思わず切り株から滑り落ち、身体をひねって前に両手をついたところ、池を覗きのぞき込む姿勢となった。

 

 そこにはやはり女が映り込んでいる。口元をにやっとしながら高二とまっすぐ視線を合わせてくる。真っ青な長羽織ながはおりを着ながら、顔は陶器のように真っ白でいながら、口紅は深い深い藍色なのが何故かわかった。


 「ねぇねぇ、どうしたの?」

 「ねぇねぇ、寂しいの?」


 口元だけ笑っているものの、顔は笑っていない。


 うわっ、女のグイ(幽霊)だ、と高二は心臓を締めつられでもしたかのように身体が硬直していたが、ふいに水面の女が高二に腕を巻き付けようとしてるのが見えた瞬間が我慢の限界だった。

 

 「寂しいならついていくわ」


 うわぁ、ああ!


 高二は瞬間前のめりに、池にばしゃ、と手をつきずぶ濡れになりながらも無我夢中でもがきながら、走り出していた。

 

 救命呀たすけてくれぇ!!!

 

 月明りを背に高二は走り出したが、そのずぶ濡れの背の服の皺が自然と女の笑い顔になっていたのには気づかなかった。 


 辺りはしんと静まり返り月明りが池の水面にゆらゆら揺れているのが見えるのみである。

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