いつかきっと

川上 世普

いつか

「俺は世界のルールを知らなかった。いや、知っていたけど受け入れられなかったのかもしれない。受け入れたくなかったんだ」

ある男はそう呟いたが、誰もその声を聞き取れなかっただろう。

おやつの時間を少しすぎ、ちょっとずつ人口密度が増してくる電車の中。そのうちの1つ、東京の地下を轟々と音を立てて走る電車に彼は乗っていた。

1番ドアに近い「特等席」にいる。なぜ「特等席」かって? それは乗り降りのしやすさと、片側に人が座らない安心感があるからだ。そしてこの「壁」に傘をかけられる。

「壁」には、どこにでも売ってそうな真っ黒な傘がかかっていた。

「誰も俺なんかに興味なんてないんだ。人はそれぞれ自分の時間があるんだから、わざわざつまらなさそうにしているやつと仲良くなろうとなんて思わないさ」

俺は何を呟いているんだろうか。誰かに聞いて欲しいのか? いや、そんなことはない。人間なんて大嫌いさ。痛いくらいだ。みんなみんな俺のことを馬鹿にしやがってふざけやがっても……

「つまらん」

その時、電車の中にひとつ声が響いた。響くと言っても、どこか厳かな雰囲気をもって、すっと空気中に消えていった。

乗客は皆、その声が放たれたほうへと視線をやる。興味津々に目を見張る者。恐る恐る視線を上げてみる者。ちらっと視線を動かす者。違いはあれど、皆その初老の男を見ていた。

彼もそのうちの一人だった。しかし、その老人は彼の隣に座っていたから、反射的にちょっと視線が上がっただけで実際には首元までしか見ていない。

彼は正直焦っていた。俺の言葉が聞こえていたのだろうか。いや、それにしても「つまらん」とは失礼な。こっちは色々悩んでいるって言うのに。少しくらいは弱音吐いてたっていいじゃないか。時間が経つにつれ、怒りも込み上げてくる。

まあ、後味は悪いけど、これ以上話すこともないしまた空想に浸るようにしよう。空想、空想……。


――ああ、そうだ。この世の中の不条理を嘆いているとこだった。おかしいじゃないか。大体よ。みんなみんな真実の愛だとか友情は語るくせして、すぐに他の「大切」を作ってしまう。

ずっと何かを大切だって思っているのか? 目の前に楽しいことがあればそっちに行くだろう。永遠の愛よりも一瞬の快楽だろ。馬鹿じゃないのか。それでいて、失ってから嘆くんだよ。

もっとずっと一緒にいたかったとか。何もしてあげられなくてごめんね。だとか。あなたがいない世界に生きる意味はないだとか。

じゃあちゃんと守ってやれよ。後から嘆いたって遅いんだよ。後悔するくらいなら幸せにしてやれよ。一瞬たりとも忘れてやるなよ。誰かは言っていたぞ。本当に大切な友人は兄弟のように退屈だとか。一緒にいて退屈なくらいがいいんだよ。大人になってもラブラブなカップル、あれは偽物だ。人間は好きとかいう感情は薄れていくんだから、そういう創作物なんだから。近親相姦が起こらないために上手く作られてるんだから。子孫を反映させるために色移りするよう作られているんだから。ちゃんと理解しろよ!!

はい。理解しました。だから真実なんてないです。目移りたくさんします? は? 馬鹿馬鹿しい。

人間の尊さを忘れている。理性のない人間は獣だ。ボノボやチンパンジーだ。ボノボは一年中生殖できるんだってよ。群れの秩序を保つために食前にセックスするんだってよ。はーー。ラブアンドピースってわけね。そんな下品なものを駆使して秩序を守るんだってさ。お見事お見事。


はは、やっぱり人間も同じか。

理性なんてありゃしない。

尊い人間はぜんっぜんいない。

ほーんと、人間は馬鹿なんだから……


「つまらん」


また、あの声がした。

彼は、今度こそ顔を上げる。その視線の先には、優しそうな顔があった。どこかで見たことがあるような……。

「次は〜和光市〜終点です」

車内アナウンスが鳴る。もう乗客は僅かだった。

老人は、彼を見る。そして、そっと視線を逸らした。


「君も、いつかわかるよ」

「……はあ」

電車のドアが開く。

老人はすっと立つと、壁にかけてある傘をとって、堂々とした足つきで行ってしまった。

「あ、まってまってそれ、俺の傘です!!」

彼はそう言って足早に電車を出る。

しかし、もう老人の姿はどこにも見当たらなかった。


彼は、ぼーっとその場に立ち尽くした。

窃盗だとか、そんなことはどうでも良くて、とりあえず今日の夜ご飯は何にしようかと考え出す。


駅を出ると、綺麗な夕暮れだった。

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