第3話 まるで鏡を見ているかのようで

 ラテア国よりずっと遠く、半月程かけなければ辿り着けない程に遠く、周囲から断続するように厳しい谷に作られた小さな村が、アキレアの故郷だった。

 その村は、赤や緑、青、黄、橙、紫といった、はっきりとした色鮮やかな羽を背に持つ有翼人達が集まって作られていて、彼等は素晴らしい歌声を持つと言われている。

 歌は彼等の言葉であり、感情を伝える為の手段であり、その為に、どんな人物の声であろうと模す事が出来るという特性を持っていた。

 その為か、村では周辺地域との交流は一切持たず、その暮らしは自給自足で実に質素であった。

 自ら畑を耕し、獣を狩り、歌を口ずさみ、食卓を囲み、明日をまた健やかに過ごせるよう祈って眠る。

 それが、彼らの毎日だ。

 けれど、アキレアはそれら全てに、誰かの力を借りなければならなかった。

 畑に行くのも、狩りをするのも、村の皆が集まる場所へ行く事さえ、アキレアは一人では出来ないからだ。

 村の中では、谷のあちこちに各々の棲家や要所を作り、各場所には飛ぶ事でしか辿り着けない仕組みになっていた。

 アキレアは耳の側に小さな小鳥ほどの小さな羽がある姿で生まれ、その背中には翼がない。

 つまり、一人で飛ぶ事が出来ない、のだ。

 村の皆は誰一人として、アキレアを卑下する者はいなかったが、それがまた、アキレアの自尊心をどんどんと傷付けていった。

 ここにいたら、きっと、自分は駄目になってしまう。

 そう考えると恐ろしくて堪らなくなり、気がついた時には少ない荷物を持って、アキレアは村から飛び出していた。

 村から出てしまうと、それまでの生活がどれほどに不便なものだったのか、改めて感じさせられた。

 有翼人という特徴さえなければ、アキレアは他の人間達と然程変わりがない。

 飛ぶ事が出来なくとも生活は出来るし、仕事だって、移動する事でさえ、誰かの手を借りる事なく出来るのだ。

 アキレアはすっかり開放的な気持ちになり、自由の身である事に高揚感を覚えて、外界へと飛び出してしまっていた。

 何の知識も経験もなく、それでも外に出れさえすればどうにでもなるのだと思っていたアキレアは、あまりに無防備で、あまりにも無知だった。

 そうして、気がついた時には、人買いに囚われてしまっていた。

 彼らは、アキレアの容姿が珍しいと言って、まるで鳥を捕らえるかのように攫ったのだ。

 ただ、耳の側に羽が生えている、というだけで。

 誰の声でも模す事の出来るその特性が、珍しい、というだけで。

 そこからは、本当に酷い有様だった。

 碌に食事らしい食事を与えられず、歯向かえば直ぐに鞭が飛んできた。

 口答えをする事すら許されず、それを幾日か繰り返した後、アキレアは愛想を振り撒く事で、どうにか生き延びる事を学んだのだ。

 相手の視線や声の高さの変化、どうした時にどういう反応をするのか、静かにそれらを観察し、それに見合った行動をする。

 そうして、どうにか怒られないよう、怒られても少しの時間で済むように過ごしてきた。

 常に破裂しそうな、張り詰めたような空気の中で過ごすというのは、知らぬ間に精神を削り取っていき、生きる気力を少しずつ失わせていった。

 そうしてその生活が終わりを告げたのは、人買いの元で囚われてから数ヶ月後だった。

 アキレアを買ったのは、今まで見た事のないような上等な服を着た男で、人買いはしきりに頭を下げていた。

 どれほどの金を注ぎ込んだのかは知らないが、きっと、言い値よりずっと高い金額を手渡されたのだろう。

 同じように囚われていた者達は、恨めしそうな目で見ていたり、哀れんだ表情を浮かべていたり、決して視界に入れないようにしていて、そのどれにも、アキレアは無表情に無感情に徹して通り過ぎるだけだった。

 外に連れ出されたとして、そこがここと変わらぬ地獄なのかは、彼らにもアキレアにもわからないからだ。

 そうしてアキレアが連れてこられたのは、今まで見た事のない、大きな城だった。

 否、遠目には見た事があるが、決して自分の人生には関わりのない場所だとして、その存在を忘れていたのだ。

 城の側には、まるで寄り添うように浮かぶ島があった。

 其処は、歌姫と呼ばれる姫君が住まう、空中庭園だという。

 まじないの石を使用する事で空中へ浮かぶ、浮舟と呼ばれる小さな船に乗せられて、アキレアは空中庭園へと足を踏み入れた。

 赤、青、黄、白、橙、紫、緑、茶……、色とりどりの花々と噎せ返るほどの香りで満たされた庭園は、それはそれは美しく、まるで天上のものと言われても信じられてしまうだろう、とアキレアは思う。

 白い小花の咲くアーチをくぐり、庭園の中央に設置された豪奢な白い四阿の前へと臣下達に連れられて歩いていくと、そこにいたのは、鮮やかな新緑の色をした長い髪を靡かせた、美しい少女だった。

 アキレアと変わらないだろう年頃のその少女は、この国の歌姫なのだ、と臣下達は言う。

 この空中庭園より、平和を喜ぶ歌を国民達へと届ける役目を持つ、特別な歌姫様なのだ、と。


『………何てことを……』


 夕陽を思わせる瞳を揺らし、ストレリチアは喉の奥から絞り出すようにそう呟くと、きつく両手を握り締めて俯いていた。


 *


 初めて顔を合わせた後も、ストレリチアは時折泣き腫らした顔で、不機嫌そうに顔を歪めて睨みつけるようにアキレアを見ていた。

 前途多難だな、と頭の片隅で考えながらも、今までの奴隷同然の生活で培ってきた、にこやかに見えるだろう笑顔を浮かべて、アキレアはどんどん愛想を振りまいった。

 子供だろうが大人だろうが、大抵はにこにこ笑って従順に言う事を聞いていれば、邪険に扱う者はそういない。

 それを知っていたので、目の前に対峙している、自分と然程年齢が離れていないだろう姫君にも同じように接したのだ。

 一時期、金持ちの家で従者をしていた経験もあるので、彼女の身の回りの世話をするのは苦ではなかったし、それよりも、彼女の声としての仕事の方が重要であったので、アキレアは歌姫が毎朝国民達へと届ける歌の練習に専念しなければならなかった。

 けれど、元々持ち得た種族としての能力が高い為に、それすらも彼女の秘密を知る僅かばかりの人間達にとっては、驚く程の早さで習得してしまっていたのだ。

 飲み込みが早く優秀で、聞き分けがいい、となれば、誰からの信頼も勝ち取ってしまうのは容易であった。

 アキレアはただ毎朝歌姫の代わりに歌い、彼女の代わりに言葉を発し、それが終わって彼女の世話をそれとなく済ましてしまえば、悠々と過ごす事が出来る。

 今までのゴミ溜めのような生活を思えば、まるで天国かのようにアキレアには思えたものである。

 けれど、それを快く思わない人間がいるのも確かで、それは、なんと一番に信頼されなければならないだろう、歌姫の少女であるストレリチアであった。

 彼女は、アキレアが愛想笑いを浮かべれば途端に不機嫌になるし、「そういう笑い方は止めて」ときつい口調で言い放つ。

 流石はお姫様。我儘も超一流。

 そう、アキレアは辟易したものだ。

 真っ白で統一された歌姫の私室の中で、彼女はそれを否定するかのように派手な赤いドレスに身を包んでいる。

 首には、大きな赤い宝石がついたチョーカーまで身につけて。

 おまけに彼女は、アキレアはわたしの声なのだから、粗末な服を着させないように、と、上等な生地で出来た衣服まで用意させたのだ。

 それには流石にアキレアも、さぞかし自由に、好き放題に育てられたに違いない、と思わず鼻白んでしまう。

 勿論、表面上は完璧な笑顔で取り繕いながら。

 そんなアキレアを見た彼女は、けれど、悔しそうに顔を歪めてドレスの裾を握り締めるのだ。

 そのほっそりとした指が、真っ白になるまで。


『あなた、その笑い方や話し方を止めて頂戴』

「歌姫様にそのような口を聞いては叱られてしまいます」

『それならせめて、わたしの前では止めて。その呼び方も』

「……、難しい事を仰いますね」


 面倒だ、と思っている事を隠しもしないで面に出せば、彼女は途端に子供のように目を丸くして、顔を覗き込んでくる。

 初めて目の当たりにするアキレアの無遠慮な態度に、怯えもせず、嫌悪するでもなく、そうして彼女はただ、ほっと息を吐き出して笑ったのだ。

 何故だか心底安堵したようなその様子に、今度はアキレアが戸惑ってしまい、緩く唇を噛むと、俯いてしまう。

 どうして、と思わずにはいられない。

 どうして、そんな顔をするのか、と。

 望まれたものを望まれたように与えられている筈なのに、彼女はそれを拒み続けるような態度ばかりを取っている。


「どうして、そんなふうに笑うんですか」


 素直に疑問を口にすると、彼女は少し困ったように笑って、いて。


『だって、あなたまで、この役目に縛られて欲しくはないのよ』


 感情の起伏が激しいという訳でなく、ただある一定の、彼女が許せない何かがあって、彼女は怒っていたのだろう、とアキレアが理解したのはその時が初めてだった。

 そして、今まで猜疑心と警戒心でいっぱいだった心を、そっと解してしまったのも。


「姫様、そういう時はお願いをするんですよ」

『お願い?』


 アキレアの言葉に、ストレリチアは首を傾げた。

 動作に合わせて、柔らかそうな新緑の長い髪が揺れている。


「はい。こうして欲しい、って伝えればいいんです。出来れば理由も添えてもらえれば、有り難いですね」


 正直言って、あれは駄目、これは駄目じゃあ、あまりいい気分しません、と肩を竦めて言えば、ストレリチアは夕焼け色の瞳をぱちぱちと瞬かせている。


『……え、そう、なの?』


 見るからに狼狽えて、顔を真っ赤にしたストレリチアは、頰を両手で押さえて、顔を俯かせてしまっていた。

 その年相応の少女らしい一面に、アキレアは思わず、ふ、と息を吐き出してしまう。


『ごめんなさい。あなたに怒っていたわけではないのよ。……本当よ?』


 どうやら、アキレアに対して我儘を言っているのではなく、自分の中の感情に折り合いをつけられずに、苛立っていただけ、らしい。


『わたしはわたしが許せなくて、怒っていただけなの。あなただけは、せめて、ここでは自由でいて欲しいから』


 何にも囚われる事なく、笑っていて欲しいのよ。

 そう言われて、困惑したアキレアは暫し考え込むと、緩やかに首を振った。


「なら、姫様も俺の前ではもっとちゃんと気持ちを言葉にして下さい」

『善処するわ』

「それ、お役人が程のいい言い訳にするやつじゃないですか」

『だって、難しいのだから仕方ないでしょう』


 困ったようにそう言ったストレリチアに、なんて不器用な人なのだろう、とアキレアはそっと吐息混じりに笑ってしまう。


「それでいいんですよ。そうやってちゃんと言って下さい。その方が……、俺は、嬉しいです」


 外に出る事が許されない、歌えなくなった歌姫。

 飛べない翼を持ち、どこにも行く事の出来ない、自分。


 互いにどこか似ている気がして、一人きりではないのだ、と思えて、それが、とても独りよがりでみっともない気持ちだとも自覚してしまって、アキレアは地面に視線を落として俯いてしまう。

 ——けれど。


『本当?』


 目の前に突然手を伸ばされて、アキレアは青い瞳を大きく瞬かせた。

 ほっそりとした白い指先が頰に触れ、ひんやりとした体温が皮膚から伝わってくる。

 頰を両手で押さえられて、目の前が新緑色でいっぱいになるのを感じながら見つめた大きく開いた夕陽色の瞳は、光を弾く長い睫毛に縁取られ、柔らかに細められている。


『私もそうよ。同じなのね、私達』


 それはそれは嬉しそうに笑って、彼女がそう言うので。

 アキレアは羽耳よりも髪色よりも真っ赤に染めた顔を俯かせてしまっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る